キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

再開する為のpretext(建設完了)

まあ、響鬼の話を終わらせたいとdiaryの方にたまに書いていて、そのうちにdiaryがメインのメディアみたいになってしまったわけです。ジュブナイルもしくは児童文学の映像化に際してのリアリズムについて書く、書こうと、それが響鬼の終わりの話だと頭では決まっていたんですが、なかなか書きあぐねていたんですが、もう寝かしとくわけにもいかんなという焦りみたいなものが来たんで、とりあえず書こうと思いたって、ここで告知だけせんと書き殴ってるんです。

ただこれからのこのブログについてお断りしておきたいことがあります。多分、一つの記事・エントリーについて完結したものを、完結したから上げるという慣行は踏襲しないと思います。diaryの方で書きかけをあげて、放置して、何か来たら書き足す、完結することもある、みたいな文章の付き合いをしてきて、助けになったのは、放っとくと切れてしまうことになるログインしてなくても、urlへのアクセスだけで最新の履歴を、自分の思考の履歴の最終を確認できることでした。書く、それを考えて読む、そして、その続きを招きよせるためには、アカウントの中だけからは窮屈なのです。まあ普通は避けるんでしょうが。

そんなわけでこの先ここには書きかけの文章があがることもあります。終わったら何らか慣用句でもってその旨告知するかみたいな、加筆をするかと思います。


追記 だいぶ間が空いたので、一つのテキストにまとめるのをあきらめて、追記として続きを書いておきたいと思います。もう一つお断りしておきたいことがあって、書きあぐねて間が空いたのですが、それが何かといいますと、次の次第です。つまり、このブログでの物言いがPCにかなう、政治的に正しい側に居ようと気をつける努力はやめますよ、ということです。

そんなこと、今さら誰でも言ってる事なんですが、それがなぜかと言うならば、あとで触れるかもしれませんが、フェミニズムや反差別への疑念があるにはあるんですが、分断ありきをよしとしたくない、誰かの作った、もしくは既在の分断に、無分別に乗っ掛かりたくはないとかいうおかしな拘りを持ってしまうんですよ。

そんなわけで何か線引きをせざるをえないわけですが、既存の分断と変わりばえのない線を引くこともあるでしょう。しかし、そうであっても、ある考えなりのその線引きの目的合理性と、その敷衍で現状をある程度の一貫性でもって説明しようとするなら、その線引きはやってみるに値しましょう。そして、この線引きの試みは神の死後の、私達とその社会の身の振り方の問題系を喚起することになると考えます。神が死んでしまっても、彼がその救済の宛先であった人間の被造性、受苦性、苦役の避け難さ(「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す」「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」)は消えてはおらず、神の座の後継者としての人間が、現在の十戒たるべく、かっての無限遠点ならではの救済を、被造・受苦への救済を、たとえば憲法に書き込んだとしても、それは間違った設問であり、非在の番地を求めて右往左往するのに似て、疲労困憊するばかりでしょう。

それが無限遠点に設定されていたのは、自らの不完全に対する自己への詐術だったからで、詐欺師の芳しい言説の甘い汁が、一部の属性、働かされて糊口を得て家族を養う男だとか(地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る)、天の意思を表現し書き留め得る文章の所有者たる男だとか、特定の文化、民族に見られる論理の例も含めて、神の主権の地上の代理人、人間が地上に生きながらえていく単位たる家族、その長として戸主たる「男」に(わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう)、甘い汁が独占されていたからといって、神が死ねばその特権がそれ以外の属性のあらゆる人々にすべからく解放されることになるなんてことはないんです。元から詐欺ですから(そんな持続可能なパイはない)。

そして、それでも神による救済を模倣することに固執して、それをあらゆる人々の自然権として憲法なりに書くのに固執してみたところで、よくてメリトクラシーによる自己救済、悪くいけばターンごとに加速して椅子がなくなる椅子取りゲームに帰結するのがせいぜいでしょう。なんせ神は死んだのですから。

問題は人がそれに気づいているかで、人々がそれを望んでやっているように見えるのは、否認による半ば意図的な失認を疑わせなくもありません。

さて、ことここに至って、西光万吉の「人が神にかわりうる時代が来たのだ」という認識を私は思い出し、同意します。あの少数者権利宣言みたいな(もっとも、あの宣言の近代認識は少数者の包摂にとどまらない普遍性はあると思うが)はれがましさとは別の意味においてですが。

それは「必殺仕業人」での「(悪党だから)仲間が欲しいんじゃねえか、地獄の道連れがよ」といったささやかな連帯への希望であったり、「仕置屋稼業」での「自ら望んで地獄に落ちた男は仏ですら救ってはくれぬのだ」という怨みと嘆きであったり、侍として生まれて剣を持てば、広がっている「殺すか、殺されるか、道は二つに一つ」の業苦の世界の認知であるわけです。

さて、私達は幸せなことに、生まれてきたことで、人を殺すための剣は持たされませんが、主権者であるからには、現在そんな法は施行されてないとしても、徴兵されて銃をとって国家の暴力の担い手でありえるわけで、そうであるからには撃っていい、撃たなあかんわけですから、コードギアスのような覚悟があろうとなかろうと、撃たれることもありうる身分なわけです。

そして市民の権利として、武器を持つことは認められてませんが、ペンをとり自由に意見を発信することは許されてます。案件AやBについて是か非かの表明が認められるといった程度の話ではなく、ICTの発達のおかげで、一人一メディアとしてまとまったものを広範囲に発信できます。発信がおおいに重なれば、また発信への支持がまとまれば、誰かを社会的に殺すこともできます。

さて、これらの機能はかってはそれなりの大きさの、個人じゃない人格に独占されていたのです。

さて、追記としては長くなりました。この度はここまでとします。プレテクストというよりはリハビリテーションみたいな作業でしたが、こういうことをこれから(それだけじゃないけど)書きます。この稿はここまで、それでは皆さま、お元気で。