キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

山口真帆騒動一件②書く前の見取り図プロトコールとかレジュメの類の2

そういうわけで第三者委の会見で運営の信頼に傷を付け(もともと運営自体炎上のための藁人形ではあったが)大々的に山口のストーリーで卒業公演をして送り出し(送り出してるのが悪者の運営なのは何故と齟齬を指摘する者もいた)見世物興行としてメディア側からしたらめでたしめでたしだったが電通としてはそうは行かなかった。運営ははなから炎上の為の藁人形なので汚名被ったってもそれでいいが、山口のアングルは運営だけでなくグループにも汚名を被せるものだったからである。それを最低限でもそそぐ為の第三者委だったがメディア屋さんたちと秋元さんの仲間たちが興行として消費してしまった。これでは顧客に対してグループが顧客の広報の表看板としてを起用するに相応しくなくなってしまう。というわけでもう一度汚名をそそぐために裁判をする羽目になる。

ここでありがちな疑問が起こる。何故裁判?何故山口ではなく不起訴として元容疑者と?

一つめはこれはメディアに人が求めがちな物語としての納得ではなくコンプラの問題である事、二つ目は事実を明らかにしても誰も得しない、当事者の背信とは言え前途ある女子に瑕疵の前科を負わせたくないという収拾の原則があるにしろ、当事者電通AKSとしては背任の遠因パパ活が前面に出てやり甲斐搾取の搾取当事者として矢面に立てば広報にアイドルグループを使うという企画が社会的に非難され禁じ手になるかもしれないというリスクをあげておく。

そんなわけで裁判が始まるが、裁判であっても第三者委の時と同様炎上興行として消費したいメディア勢てのがあって(なんせ真実は真逆なのだしうまくやれば燃える)そのパートナーのAKS内一派を牽制しつつ綱引きをしながら裁判オペを実行していくことになる。

その帰結がどうかと言えばなのだが、AKSの意思決定の外部性は下請けY&Nに創造面を委ねていることに由来していてその企画立案の主な柱はTV局主導のメディアミクスなのである。そこで村外に認知してもらえるグループの顔を作り露出し続けていることがマスにグループが認知されている事の源泉だった。マジすかでの初期メンからぱるるさくら、ゆいはんもか、朝日系オフィスクレッシェンドメインのぱるるまゆゆ、とか。このオペの資源の由来はミリオンである。概ねキー局のコンテンツは製作著作キー局自体であり、マジすかの日テレでは制作も局、プロデューサーも概ね下請け制作プロダクションは入らず局の人間で完結する。結局ミリオンとは局の利権になる。TV局に抱きついていった結果、オペの主軸にTV局主導コンテンツをおく結果下請けの意思内容にTV屋さんの色が強くなり、この関係性を背景に自社の商品の価値を毀損してまで晒し者にして、他社メディアのPVなりの短期業績の為消費することが常態化される。また事件が起きた事はともかく収拾出来なかった事、発覚後収拾するどころか拡散させた事は、委託されているY&Nの企画立案実行の恣意をチェック出来なかった事、この委託を通じて外部の利益の実行がAKSで優先されてしまうという性格に起因することが理解され、裁判での外部メディアに内通するAKS内の動きを牽制するオペは下請け関係のY&Nの役割を再定義することになり分社化され各支店ごとに委託のオーダーの主体が置かれ、先の関係性の基盤メディアミクスの源泉ミリオンは解体されるに至る。

なぜここまでの大鉈が振るえたかというともう村外に顔を売り出すメディアミクスが形骸化していたからだ。要因として一つには秋元が坂道に軸足を移していて村外に押し出すほどの材、秋元の食指を動かすほどの物語を持った子、がいなかったことがあるのだが、二つ目としてはこれが軸足を移していった理由だろうがTV局のコンテンツを生産する能力が衰退していったのである。やはり広告収入の減少が原因なのだろう、人材といっても囲っておけるのは財力あってのことだし。製作委員会形式といってもTV局主導で権利収入があるくらいに持って行くには他人の金だけでなく自分の金持って来なければならない。今までそれが出来たから著作をTV局が持っていく形で大きな予算を要する大きな企画を製作できたがそれがもう出来なくなったのだと思う。前述のAKSとTV朝日のタッグでは制作プロでオフィスクレッシェンドがメインだが、日テレと違い朝日では制作プロのプロデューサーも立てられる、豆腐プロレスが最後かまでは確認できてないがそれくらいの時期がオフィスクレッシェンドがTVドラマ制作してた時期である。20年代にはないんじゃないか、それくらいTV局の制作環境は衰退しているのである。

話を戻してAKS内部の牽制から分社化の過程と並行し連関して新潟の支店では事件の遠因であったY&Nのオペ、短中期的なオペの目標はあったがY&Nが逃げ出したのでご破算になった、の置き土産の清算が行われる。分社化前は裁判の当事者の法人もあり作業の中には裁判の為のものもある。

そしてこの事件後のNGTの再構築を精査しようとするには何がどう変わったのかを把握理解することが必須である。それには結果ご破算になったにしろ18年のNGTのオペからあの時の中長期的な目標が何だったか理解しなければならない。でこの目標を頓挫させたのは山口真帆の起こした事件のわけだから18年のオペの障害として山口真帆の18年の行動を振り返ることになる。それは障害になって頓挫させるほどには18年のオペでの山口真帆の重要性を定位する作業でもある。

それを抑えて早川支配人体制、新運営会社下でのNGTの再構築を何が変わったか目的と達成度という風に評価できるかと思う。この「目的」というのを適切に定義できるかという努力のために以上の作業が必要になるのである。

と説明する順序はなるのだが18年のNGTのオペってのが長くなるのである。だから前後するかもしれない。ここは傍証からの憶測に基づいた憶測てやつで妄想だから最後部なのだが、15年くらいからの秋元康の活動を俯瞰しなければならない。で18年のNGTのオペの15年辺りからの必然性てモノを列挙すると、

一つに電通、現在中井本間小熊のチームGフロントがフロントの中心であることを見ると組閣の頃からこの構想はあり一貫してるのを見るとここは電通のオーダーなりプランである可能性がまず一つ。

二つ目に秋元、Y&N側の必然性。

①商業的な要請、上に見た通りAKBのTV主導メディアミクスはサイクルを回せなくなりつつあり、康はソフト屋へ軸足を移す。公式ライバルとしていた乃木坂、TV局に対してソフト屋、劇場運営所属から芸能事務所へ上がりから自前の運営会社の準芸能事務所で一括所属というおニャン子型のオルタナみたいなマネージしていたオプションのプランの方を活性化させる。そこで欅坂が結成される。成功したから坂道に軸足移したみたいにだけ今は言えるが、48Gでもこの新規の動きが始まっていたのである。それがNGT、劇場があるからマネージは運営所属と芸能事務所と一括といかず以前の48G同様だが、レーベルがSONYになり枠買いのプロモーションがキーの支配の遠い地方局から始まる。TV局主導一本調子ではない現在のメディア環境にフィクスしたメディアミクスが48Gでも始まっていたのである。このNGTの動きは頓挫する。48Gにこの新展開の成果を波及、実を結ぶことなく終わる。

坂道について商業的な要請でいえば乃木坂合同会社の株半分だっけ出資だったかのノースリバーがキーホルダーに買われたみたいにキーホルダーという会社、ファンドだと思う、を作ったことと関係している。キーホル傘下の子会社に秋元周辺の才を所属させ、制作プロダクションを支援するような業界救済的な動きと繋がっている。

②作家的な要請、欅で平手と出会い交換日記作るくらいには受け入れてもらった秋元は金太郎飴みたいだった「離れて恋する僕」に代わる新しい詞のモチーフを求め始める。結果この演者と作家の関係性自分語りを当の演者が歌うというパフォーマンスのロールの布置も変化する。多分「不協和音」辺りからそういうプロデュースがはっきり始まる。そして抽象的な感情を創作の物語で形にするのではなく現実の演者や題材の人間の物語を核にし形にする当て書きの作業はより強い物語を求めて、48Gや秋元周辺の事件を題材にするようになる。ワロタピーポーが須藤の騒動を想起させるのはよく知られているし、ひらがなけやき浪花節はけやき自身の待遇から由来してるのだろう。実際「それでも歩いてる」のもはや拓郎ではなくディラン調はおっさんとしてはとてもよく頷けるのだが、この詞の強さが、他に青春の馬にしたって、ひらがなに冷遇を甘受させていたこと由来ならとても評価できるものではないという気持ちを捨てられない。

でこのような詞の核をなす現実の人間の強い物語を求めて、事件を許容するは勿論、事件を求めてマネージを疎かにさせていった疑いがある。この手のマネージの綱渡りを新潟でさせていた可能性があると思ってる

で、こういう2010年代の流れの結節点みたいな18年のNGTの流れを抑えないと事件の山口真帆のぶち壊しぶりが押さえられない。また18年の山口の愚行ぶりを類推しないと宮島事件からカニの引越しの闇の正体を仮定できない。そうしないと告発直前のカニの煽りの含みを類推できないだろうというわけでこの連続記事全部終わるには告発直前のグループと運営との対立点の再説に最後は立ち戻るべきなのかもしれない。締め括りが「全て解決」なのか「閉店ガラガラ」なのか新しく発見した妄想に従って「Nobody's fault」なのかはまだ決めかねている。