キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感7

(書きかけていたものです。より俯瞰の視点の完結の着想が来ましたが、書き始めの着想をよく捉えているので、締めの手を加えて公開します。)

だいぶ間が空いてしまった。少し復習を。

まず一つ、響鬼は超人のヒーローとその周囲の通常の人のドラマの主副の関係を逆転させてみようという実験的な試みだったと思われる。よって実質上の主役は明日夢君である。

この構想はおそらく十分な準備期間をもって実現されたものではなかった。明日夢君役の俳優の演技を観て即興のように具体化したのではないか。ゆえに一年間のドラマに耐えうるような課題を見出せず破綻した。

響鬼から引き継いだ父性の課題から模索するなどおよそ、2クールの試行錯誤を経て見出した日常側の主人公の課題は日常側なりの立場で悪意と対峙することだったと思われる。唐突な28・29話はその結論のイメージをおおまかに示唆しているのだろう。

というわけで、もうそろそろこのシリーズを終わりにしたいのだが、やはりカノンちゃんが何に苦しんでいたのかに触れないとこのシリーズは終わるわけにはいかない。そもそもカブトの件で調べていて、そのことで気付いた、思いついたことを書きたくなったから、これを書き始めたのである。

まず前提として了解してほしいのが、ある人が心的に長く傷つき、苦しんでいるとき、その人が傷ついた原因、引き金となった事実がその人を苦しめているという理解は、おそらく正確な表現ではないのではないかということである。問題は傷ついたという感情なり、自己愛の毀損したという認識をつねに生々しいものにし続けている力が何に由来するかということではないだろうか。人はなぜ苦しみの中にとじこめられて、そこから出られなくなるのかが問題なのである。

この点を押さえてみれば、カノンちゃんが彼氏に裏切られた、大事なものを奪われたという原因は実はさほど重大ではない。だから原因とその結果というセットとして釣り合うもの以上に、結果の苦悩は過剰に生活そのもののように描写されている。響鬼でも原因の万引き少年の加害の描写はあっさりである。交替によって尺がなかったのが確かなのだが、和解とかドラマのプレイヤーとして重要な役回りはなかったような気がする。苦悩を因果とか関係性とか外的なものとして、捉えるより、内的な感情や情動の執着や拘りの感情の問題と捉えるなら、具体的な他者、原因は本質的なことでないからである。

前提として上のことを了解してもらったら、カノンちゃんの苦しみは端的にこう捉え直せるかと思う。被害を受けた事実、それによって傷ついた感情と認識を人格に統合すること、自己を責め続け、自害し続ける傷ついた感情を自我に統合すること、傷ついた感情への固着から解放されること、おそらくこれが、カノンちゃんに課せられた課題であり、戦いなのだ。なぜこんなまわりくどいことが課題になるかというと、作り手はここで、自分を変えたりする外の力はあてにできないと考えていて、懲悪として人に優位に立つための他者を求めはしない。他者の介在や排除によって問題を解決するつもりはないからだ。たとえば、癒しといえば治癒しにかかる他者が求められ扇情的になるし、許しというなら、許されるものへの優位を誇示し、居丈高になるし、そのような他力の要素、客寄せのカタルシスな要素を排除していけば、こういう筋道を辿らざるをえないのだ。そんなわけで、自室で一人泣き、バイト先で(確か皿を割り)咽び泣く彼女を誰も救ってはくれないし、かといって許すといった特別な寛容さを目指すこともないのである。というわけで日常の側の主人公のドラマは、非日常側からの働きによる変容の契機を得ることなく、ほとんど主人公自身の行動の脈絡のみを引き継いで進行することになり、かつそれにオンバケのイパダダ追跡が並行するドラマの組み立てとなる。

そこで並行するドラマは響鬼以来よく言われるように無関係で劇的な要素が連携することなく語られる。非日常の能力は主人公の苦悩を救ってはくれないからだ。また先に触れてきたクウガのように相互に影響しあうことはないように見える。

このあたりがくせもので、響鬼以降の高寺作品が読みにくい理由だと思うのだが、並列するエピソードの連携の仕方が変わってきているのだ。クウガの頃ならサブエピソードはどこかで雄介と絡むし、ヒーローの課題や作品全体の主題の明確化に奉仕していた。どうも響鬼あたりからメインとサブを並列して提示してどう受け取るかを受け手に委ねていったように思う。響鬼前半のように日常を何となくクサラなく生きていこうという葛藤が少ない作劇なら観ていても混乱しないのだが、イベントが激しくなってくると、受け手ははっきりとしたメッセージを与えてもらわないとフラストレーションが溜まってしまいがちになる。主副のドラマの対比はろくに何かのメッセージを明確にしてこないののだ。実際、書きあぐねたのはこのエピソードの対比、対照の話法の効果をどう位置づけたらいいのかということなので、それで間を空けてしまったのだが、諦めた、観ずに記憶と書誌だけで書いているんだもの。ただこれだけは言いたいのは、この求心力を失った偏心気味の話法が、響鬼以降の高寺P作品の奇妙な魅力であることだ。エンタメの思想史というか、モチーフ史的な切り口から言えば、リアル特撮がディザスタームービーの形式で具現化して、有事の顛末を追うことがエピソードの求心力を効かせてくるのはいいのだが、従来からの同工異曲の変身ヒーローものでは、暴力で怪人を排除する主人公の内面がリアリズムではエンタメとして持たない、観辛くなってしまったことへの反省なのだと思う。だから内面側の劇とヒーローの行動側の劇の2部構成になり、かつ行動の側は対象を排除するカタルシスみたいなものは減じられた設定になる。結果、思春期の日常の劇と、社会で揉まれた働くおっさんが交差する日常ドラマになる。クウガや以前の平成ガメラのディザスタームービーとして有事の首尾を追うリアリズムの達成はあったわけだが、響鬼では基本、非日常は日常、平時の中に収まっているスタンスなわけで(やはりそこでディザスタームービーのような段取り、求心力を求める客はいたわけだが)、偏心して対比していく話法が日常、平時の空気感を醸し出していて、それが響鬼以降の魅力であるとは言えると思う。結果、「中学生日記」だったわけだ。1クールや2クールならありだと思う。しかし4クールではとは既に書いた。

しかし中学生日記である。カノンは実は響鬼の後半戦ではないか、と書いた(と思う)。実は中学生日記だってシビアな話は多い。「誰にも言えない」とか地底人とか、唯野さんの脚本とか。あのまま響鬼が続いたとすると、そのノリで、不登校になってフリースクールに通いだした明日夢君がクラスメイトの毒親に翻弄されるとか、カウンセラーも出てきて学校に再び通いだし始めて(休学後ホームステイとかもあり)エンドみたいな話になったのでは思う。クウガのシンマ研究者の身につまされるエピソードみたいなのが本筋で延々続くような。ただどんなものかは当時楽しみにしていただけだったが、試練の予感だけはある前半だったのであのまま続きを見たかった思いは否めない。当時テレ朝では「雨と夢のあとに」や「てるてるあした」みたいな野心的なドラマを放送していただけに、どうして響鬼は完走させてくれないのだと思っていたのを思い出すのである。

最後まで読んでいただきありがとうございました。