キジ猫の雑記帳

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「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感5

響鬼の隘路と大魔神カノン>響鬼のifとしての大魔神カノン

とりあえず、カノンが響鬼がもともと持っていた構想を展開したものではないか、という仮説を検証もしくは妥当性を探してみようと思う。ここでは前半の響鬼を総括し後半の展開を暗示したような28、29話とカノンの1、2話の雰囲気を比較してみたい。

まず28、29話では土蜘蛛といって通常のCGの魔化魍ではなく、等身大、人型の怪人と鬼が戦うアクションシーンが展開していって、今まで自然現象に多くを説明していった魔化魍に、悪意がある何かであることが明確にされ、鬼と魔化魍の戦いに今まででは希薄だった悪意に対峙する緊迫感のあるアクションとなっている。対してカノンではオンバケと呼ばれる人間を助ける妖怪が、イパダダと呼ばれる人間の怨霊らしき妖異と戦っていて、怨霊ならではの激しい敵意と対峙している緊迫感がオンバケとイパダダの対決シーンから漂っていて、よく似ている。おまけに音楽は確か同じである。

一方、日常の人間はというと響鬼では明日夢君は万引き犯に報復?されたなどの悪意と暴力に遭遇し引き籠っている。一方カノンのカノンちゃんは彼氏に裏切られて引き籠っている。似たような行動から始まっている。このあと響鬼では響鬼さんが明日夢君を山に誘うが、その山での工程では、響鬼明日夢のやりとりに終始し、同時に進行している鬼の土蜘蛛追跡行には終盤以外ほとんど絡まない。山登りとキャンプと土蜘蛛追跡は平行して進行するのである。カノンにおいては世間の接触を最小にしているカノンちゃんの日常が淡々と進行していき、同時にオンバケの緊迫したイパダダ追跡が並列して示される。カノンちゃんはオンバケの筋に絡んでくるわけではない。ラーメン屋で出くわしたり、あるオンバケがカノンちゃんと昔出会ったことがあることに気付くくらいである。

カブトで調べ始めて思い立ち、響鬼の28、29話を観てみたのだが、上のようにドラマの構成要素と組み立ての仕方がほとんどカノンの初っ端と一緒なのである。ただカノンはシリーズとして制作されたものであれば、28、29話が短い話数なれど課題とその乗り越えを描いているのを考えると、カノンちゃんの物語を響鬼の後半で描きたかった物語の展開と考えたくなるし、響鬼の前半が小さな課題は提起しながらも、シリーズ全体を統べるような大きな課題を提案することには失敗したのではないかという視点からすれば、カノンを響鬼という作品全体でも描きたかったものの展開として考えたいのである。

そのテーマ上の必然性とドラマ作りの方法については既に述べてきた。テーマを構成する作中の課題の点についても、響鬼後半では「現実はつらい」が提示されたのではと邪推してきた。ではカノンではどんな課題が提起されたのだろうか。

カノンの場合、語りは最初からあからさまにしている。アヴァンタイトルの1話のナレーションから「都会で生き方を見失った一人の女性が」云々、ようするにもう一度生き方を再発見することになるのである。

話が少しそれるがこのアヴァンタイトルがなかなかクセモノで、おそらくこれは先行作品へのオマージュへの要素を含んでいて、その点では副次的な外面的な要素なのだが、ある意味ではこのアヴァンがあるおかげで、日常側のドラマが成立しているとまで言ってもいいくらいのトリックがあるのではないかと思っている。

何のオマージュかというと大映の少女ドラマシリーズへのオマージュである。大映ブランドのアイコンをTVシリーズで制作するにあたり、大映TVドラマのスタイルにオマージュを捧げたと想像している。実際本編も大魔神のというより大映TVドラマ少女もののリアル風リメイク+東映コス活劇といったテイストである。しかしこのアヴァンはそのような二次的な要素にとどまらないところがある。ここでアヴァンで注意したいのが、「このドラマは21世紀の寓話である。」と事前にドラマ全体を要約、予告している点である。つまりこの語り手はこのドラマには寓意があること、真意としての作り手の願望めいたテーマめいたものを仄めかしていること、このドラマが架空のものであることを示唆してるのである。

もちろんこのことは送り手、受け手であれドラマが消費される際には自明のものである。しかし、高寺Pがドラマ作りで特撮の約束事らしい嘘らしさの記号を極力排していったことを考えると、寓意を、つまり物語の作為性をあからさまにして語りを始めるというのは特異なことである。これがオマージュに留まらないと考えたい所以で、この作為性の宣告があるので、現実をより広く深く描写していく際限のなさから、物語が成り立つだけの緩衝地帯としての閉域を保護できた、これは響鬼との大きな違いではないかと考えたい。「現実はつらい」と言うとき、とりわけその困難さに近づいていくには難しさが伴う。ある悲惨な出来事があれば、それを上回る他の悲惨な出来事があるはずだし、結局より悲惨探し競争の勝者でなければ、フィクションでの課題とその乗り越えという物語は浅薄、空疎だということになりかねない、アヴァンで作為性を宣告したことで、そんな外的な悲惨さ競争に予防を張り、ある個人のより内面的な、主観的な行き辛さをドラマの焦点に据えることができたと思うのである。実際、ある種の人から見れば、カノンちゃんはささいなことで苦しんでいるようにも見えるだろう。しかし悲惨さの量が問題ではないのである。

ではカノンのカノンちゃんはどんな苦しみを抱えていたんだろうか。それこそ物語が与えている課題である。そのことを最後(多分)に考えてみたい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。