キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

(仮)青識小宮再論(建設中)

まあ、少しとはいえないくらい旧聞になってしまった話題なのだが、海外での日本の女性の交際の伝聞への評価の寸評くらいのやりとりをきっかけに相互に迂遠な調子で延々と続いていた議論というかやり取りがあったのだ。やりとり自体を議論が噛み合わない非生産的なものだったと総括することは、容易なんだけど、参戦した人のふるまいも含めて、そう切り捨てるにはどうも引っ掛かる、違和感というか隔靴の掻痒に届かない感があって気になっていたのだ。よく読めばハナから前提を共有できてないことが明らかなあのやりとりに、なぜ色んな人が口をはさみたくなったのか、あの語りへの磁力を、誰かが言うようにレイシズムやセクシズムの側面を解説した時点で話しは終わっていたというなら尚更、どう評価、位置づけるのか、まとめや外野の評を読んでも納得させてくれるものに会わなかった。それがずっと引っかかって仕方なかったのだ。

とはいえ、ようやくとば口みたいなものをつかんだ気がするので書いてみることにする。あとやりとりしてた人、参戦していた人も含めて無駄に(が、果たしてそうか?)長かったのでこの記事も多分、無駄に長さを要することでしょう。

さて、ご存知でしょうけどTwitterでユーザー名「青識」さんと大学の先生らしい小宮さんという方があるユーザーのtweetの解釈、もしくは理解を巡って延々とやり取りをしていた。まあ、もっとも青識さんのほうはそこに留まらず色々と持論、質問を重ねていたみたいで、そこが長さの一因であったんだろうが、長いtweetのまとめを苦労して読んだ感想としては、初めから噛み合っていない、最後まで論点が共有されない、不思議なやり取りだった。そしてその長いやりとりの中には小宮さんの論拠は示されないのである。他のまとめを見ると、それはtweetとは別の場所にあるのだが、たまげた、みなそれで(小宮さん側で)擁護できたりするものだなという念すら抱いたのだが、まあそれはいい、要はこれから書かれる記事はその小宮さんの(だけでなくきっかけになったtweetへの、このやりとりをめぐる発言者の主だった)読解への疑問点の提示となる。

あと青識さんについてだが、「フェミニズムはセクシズムを容認するのか」といったためにする言いがかりとは別に「he for she」なる立場とフェミニズムの整合性や関係性を説明してほしいといったモチーフから質問していたわけで、それは青識さん側から読んで行く時にやりとりの主要な論点だったわけだが、小宮さんがそれを答えるのにふさわしいのかは、また別の話だが、それは、当事者の運動の言説が当事者であるからには持っている、受け容れざるを得ない、制限された、あるいは制約された性質からくる言説の個別性(特殊性)は非対称や権力勾配を考慮するなら、人間的な言説の「普遍性」から擁護されるべきだが、個別的な、個別者(つまり当事者)はその普遍性を擁護するのか、維持していくことに、さて加担するのだろうか、といった昨今ならでは可視化された問題系を導くことになる。やりとりの発端となったtweet(以下元ツイ)の読みとは別にこの問題系が背後にあるのは押えて置いてほしい。その点からの評価も避けることができない可能性があるのである。

そんなわけで、元ツイのみなの読みへの不満点です。まず、その要点を示し、元ツイ自体は次に小宮さんにならって、テキストで示し、読んでいくことにします。先に要点を示しておくのは、無駄に長くなるこの記事で、後半の私の解釈はともかく、まず言わんとするところはそこだからです。要点は3つになります。

まず一つ、元ツイが導いてる、発話が何らかの行為をなすこと、スピーチアクト、言語行為としての発話の運用の側面に誰もが、無自覚である点です(コンスタティブの対義語として流行りのパフォーマティブという言葉を使ってもいいのかもしれませんが、調べると特定の型の言明に限って用いられるそうなのでここでは安全パイとしてスピーチアクトとしておきます)。また後で触れますがこの側面は無視されているわけではありません。

元ツイはまず直接の発話の内容として上からの立場気味に受け手の無知を示します。次に間接の発話の内容として(つまり発話の主体は元ツイ主ではない)侮辱という内容の発話があったことを指摘します。後者はもちろん前者もまた単なる事柄の陳述、伝達におさまりえず、何らかの挑発、つまり行為を見い出すことができるはずです。

ところで発話によって何か行為がなされる場合、その発話自体で完結することもあり得ますが、応答する行為を喚起する可能性が発生します。行為が積み重なること、もしくはその可能性があることによって、文脈の形成もしくはその期待が生じます。

このスピーチアクトの運用の側面、発話に応答(発話もしくは行為)があり積み重なる、このことを論者たちは無視しているわけではありません。むしろその運用に従っています。後段の侮辱の内容について解釈が交わされ、どう応答するべきか問われることをみればそれはわかります。しかしそれは無自覚なのです。

だから関接の発話の内容(侮辱)は対象とされても、直接の発話の挑発はほとんど対象とされてません。また、論者たちは間接の内容への応答に解釈の努力を払っても、自己の発話が元ツイの直接の内容の挑発への応答であらざるをえないことを意識してないのです。

問題は応答する行為が仮定、実行されるとして、文脈を形成したのか、それは期待にとどまるのか、また単数なのか複数なのか、また同定されたとして個別の文脈もしくはその期待は、維持されている間、同じものにとどまるのか、変化して論理的なステージがあるのか等の判断を、発話の連続を読もうとするなら、要求されることです。論者たちはほとんどその点を対象にする努力を払っていないもしくは安易に見えます。

二つめ、シフターもしくは転換子の処理が曖昧、不徹底なことに不満を持ちます。要は安易に同定しすぎなのですが、発話の主体もしくは発話の内容の対象が、特に特定されていないとき、その同定はたやすく限定されるべきとは思えません。人称代名詞は現実にその言葉が口にされた時の話し手と聞き手の関係を見ないと参照を同定しがたいという点をおさえれば、あのような切り出された発信を読むなら、一つめと絡みますが文脈を検討しなければなりません。それを自分の意見にひきつけて安易に同定しているように読めます。

三つめ、一つめの文脈とその可能性の把握、二つめのありうるシフターの項の把握、それがあって何らかの言葉足らずの主張があったとき、誰が発話したのかわかっていたとしても、その主張の構成要素(登場人物)、言いたいことは 解釈し難い点です。