キジ猫の雑記帳

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「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感2

・構想の問題>クウガの試み

さてクウガなのであるが、実は本放送時は見ていない。1話2話とかネットの投稿はいくらか見て、雰囲気はわかっているつもりだが、だから詳細な分析はできるわけではない。そのまえに仮面ライダークウガがどんな作品かというと、とりあえずは平成仮面ライダーシリーズの第一作目であり、平成ガメラで一定の達成を得ていた現実の延長の世界に非日常を構築するリアル特撮とも呼ばれる作風を採用した作品であると言える。

ここで対象にしたいのは、非日常を抱え込んだ日常の中で繰り広げられるドラマの方である。クウガでは非日常たる怪人に対峙する、クウガに変身する力を得た主人公と彼をサポートすることになる警察という組織との群像劇を日常の延長の手続きで精緻に描くだけではなく、その非日常に巻き込まれる一般市民の側(時に主人公と何か縁があったりする)の側のドラマも書き込んでいく。もちろん主人公のドラマとシンクロしていたり、そこに主人公が関与したりして、丸く収まったり、何らかの前向きの解決に終わるものがほとんどだが、正直重いものが多いのだ。

このあたり、観ていないので、wikiやネットの感想を頼みにして書くのでもどかしいのだが、傾向をまとめてみる。

まず、怪人の殺戮に巻き込まれて大切な人を失ったり、恐怖を感じた人、日常が壊れてしまった人のドラマ、これに関しては物語の中で何らかの解決はあるけど、本質的には終わらない。深く考えるとエライことになる問題を取り入れている。次に人間関係の身につまされるような問題、等身大の悪意や家庭の問題などの普通の劇映画にもなりうる日常で視聴者と共有できるドラマがクウガではとても厚くなっている。特徴というか主題として見て取れるのは、一貫してこの分野では父親の影が薄くどうやら父性が問題になっていること、過去を見れば父を亡くしたという人物ばかりだし、家庭を見ればやたらと母子家庭がでてくる。ヒーロードラマにおいて父性というのは一般のドラマ以上に劇として成立しうるかの根幹に関わってくるものであれば、これらのドラマが日常的なリアリティを深めるものであるだけでなくが、ヒーロー作品としての性格そのものに関わってくることが窺える。だから、日常の等身大の悪意が人を傷つけていくことも、怪人が暴力で人を傷つけていくことだってシンクロしていくのである(これはクウガでは想像、未確認。しかし響鬼以降では顕著)。

このような日常、事件の本筋を取り囲む人々のドラマが、クウガでは怪人と対決する事件そのものを辿る粗筋と並行して描かれる。もちろんそのサブドラマの解決にも主人公が関わることが多いし、メインのドラマとシンクロしてその話数のテーマを描くことにも貢献してはいる。しかしどんどん実社会の身も蓋もなさをとりこんでいって、もちろんその身も蓋もなさの中でどう生きてほしいかを制作者は伝えようとしているのはわかるけれども、ヒーロードラマとして収拾がつかなくなりかけている。

またシリーズとしては機能しているものの35話で怪人を凄絶に葬るエピソードと保育園で喧嘩していた園児が和解するエピソードが並行して描かれているように、メインとサブのドラマが同調するというよりかは、対立しながら対照でもってメッセージを描くこともある。ここでは日常が前向きに終わるが、手法としてはサブの日常の方を希望を宙に吊った結末で締めることもできるわけである。実際感想や情報をに目を通していると解決できなかった葛藤もあるんじゃないかと想像するが、上のようにサブドラマが重いと、このドラマの作り自体がメッセージを明確にするというよりかは、分裂への傾斜を含む危険がある。

そんなわけでクウガでは解決しがたい葛藤を抱えた実社会を取り込んだ厚みのあるサブドラマと怪人と対決するメインドラマが同調したり、対立して対照したりしながら全体のドラマを作っていると考えられないかという仮説を提起してみたのだが、響鬼という作品の肝はこのメインとサブのドラマのどちらがメインでサブかを引っくり返そうとしたことではないかと思っている。非日常のまわりで実社会の問題に当事している視聴者と同じ目線のドラマがメインで、怪人と対峙しているライダーのドラマがサブなのである。明日夢君が実は主役ではないかとはそういうことである。おそらく響鬼のオーディションで役者を見たときに思いついた明日夢を弟子にしないという選択の射程はこのようなドラマ作りの根本にまで及んでいたのだと思う。

これがいかにとんでもないことか、どうしてこんなことをしなければならなかったのか、当然湧き上がってくる次の問題で、まずなぜこのようなことに及んだのか述べてみる。実は端的にいうとわからない。そもそも響鬼でドラマのサブとメインが入れ替わるというのだって仮説なのだから、確かな根拠などあり得ないし、想像するくらいしかできないわけである。だからこれは想像なのだが、ヒーロー物で出来ることに限界を感じていたのかもしれないと思うのである。実際クウガでやりきって、やりたいことが残っていなかったのではという証言もある(片岡氏の本)。ここで強調したい限界というのは、たとえばミンキーモモ(第一作)の終盤で提起された「夢や希望は自分で持つものであり、人から貰うものでもあげるものでもない」といった架空のファンタジーを消費することそのものを否定しかねない限界で、リアリティを重視していき、日常のドラマを掘り下げていくほど、特撮ヒーローが作品に浸食する複雑な実社会と同質の問題を抱える視聴者を勇気づけることが可能なのか、またそれが適切なのかという疑問なのである。

おそらく響鬼はその疑問に対する答えへの試みで、ドラマのサブとメインの転換がそのアプローチ(あまり理解してもらえなかった)だったのだろうが、おそらくオーディションで役者を見た時にその方向性が定まりだしたのである。

明日夢君は弟子にならない、鬼を目指さないとはそういうことだったのだと思う。しかしこの試みはうまくいかなかったし、またこの試み自体内側からの困難を抱えていた。この課題への再挑戦が「大魔神カノン」なのだろう。あれが響鬼で構想されていたことの具体化であり、実現しなかった後半に盛り込まれるものの展開だったのだと思う。

 

 このあと響鬼の困難とカノンについて触れる予定です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。