キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

ゼロ年代は「川澄綾子」の時代であった

いずれきちんとした文章にしたいのだ、ここは独断と偏見で書きっぱなし的に聞いてもらいたい。ゼロ年代の声優の演技を一つ特徴づけるとするならそれは「川澄綾子」の時代だったと私は思っているのだ。え、堀江由衣田村ゆかりじゃないの、と突っ込みが入るだろうが、堀江由衣というのは日ナレで以前から養成していたような、林原めぐみが頂点であるような、女優さんから特別、声質や演技に新しいことが付け加わった感じはしない。声優アーティストという時代の変化を荷ないはしたが、女優としては以前からの連続性が強いと思う。田村ゆかりの場合、ああいう演技と声に癖の強い人はたまにでてくるが、個人の資質が強くて風潮として継承できるものではない。あれは一代限りのものである。

川澄綾子ゼロ年代で特筆されると思っているのは、声優の声質と演技の許容範囲を広げたということだと思っている。ブレスのノイズを演技の表現として許容させたこと、また「棒」とよく言われるが演技から抑揚の波を削り、それを自然さの表現として定着させたことは川澄綾子の功績だと思っている。声優の演技にこの傾向が技量として加わったことはゼロ年代以降のことだと思う。もちろんそれには功罪があって、表現のプラス、息づかいとして臨場感や表現の強度が高まる、にとどまららず、発声が汚いという人もいるだろうし、抑揚の波を押さえた演技に「棒」としてアレルギーもまだ強い(エクス↓カリバーー↑↑とか)。

仮説としてだが、それ以前の声優の発声ってのはおそらくラジオドラマからの継承かアナウンサー的な発声が規範の一つ(アナウンサーほど均質ではないが)になっていて、ブレスのようなノイズを抑えてフォルムのはっきりとした聞こえやすい声を目指していたと思う。他方、演技の規範は新劇のような舞台だと思う。アナウンス的な発声でチェーホフ読み合わせてみると、90年代以前の声優の演技なのかなあと思う。洋画の吹き替えでは今でもそれが続いていると思う。

録音技術の進歩もあってゼロ年代に以上の変化が訪れたのだと思う。そのなかにあって川澄綾子はとくにゼロ年代前半、最強のブレスと棒の使い手だったと思っている。ある意味、伝統的な演技のうまさを一掃してしまったと思う。以降川澄以降でないとありえない役者がいっぱいだと思っているが、またそれは今度。