キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

繰り返すあの「のっち綺麗になった問題」について。この頻発はまるで恋だね、

実はライブを見にいったりするほどじゃなくて、気になるとYoutubeをチェックしたりするくらいなんですけど、Perfume好きなんですよ、ファンというより気になる人くらいの程度なんですけど、この前、NHKでMJのPerfumeメジャーデビュー十周年記念番組やってて観てたんです。のっちの前髪ありのショート時代(個人的にはあの頃好き)のライブが割とあって、自分の中で時間軸整理できてためになったんですが、見入ってたんですよ。なんで好きかって屁理屈こねればテクノポップをアイドルがやる同時代性とか拵えられるんですけど、単純にトーク見てるとステージで見得切るのじゃなく素に近いのっちかわいいや、とか思ってニヤニヤしてたんです。

である時期からPafume見ててYoutubeで広島時代の映像あさるとホント思うのが、のっちって年齢で顔の印象変わるなあということ、ずっと不思議に思っていたんです。あーちゃん、かしゆかってのはわかるんです。一番古いらしい広島時代の映像見ててもあーちゃんは目元はもちろん顔の要素が既にそろっているし、かしゆかはそのころから目元一貫した表情があります。のっちはよくわかんない。あんまり今の印象と共有する要素って少ないんですよ。この水木しげるのベトベトさんみたいに大きな口(番組でも言ってた)開けて笑う、まだ何考えているのかよくわからない目元した(おそらく自分の考えって自分のものだけではなく、周りにも預けているような、でも不安はない)、いい意味で子供らしい女の子が、奇麗になった、奇麗になったとスレ立てられている魅力的な女性になったって信じ難いものがあるんです。

まあおまえが信じなくったって、でもそうなったんだし目出たいことじゃねえか、と言われればそれまでなんですが、それで終わらせる前にもう少しつきあってください。

で広島時代の最古の映像見てるとのっちは他の二人に比べて顔の要素出そろっておらず、いわば挙動もあわせてまだ児童の延長って感じなんですが、東京に出てきてBEE-HIVEで合宿所の中継カメラの前でギャグしたり、メンバーでダベっている頃になると、もう中3で顔が出来上がってきてるんですけど、そのころの映像と現在前髪からレングスになっておでこ出してる時代と比べてみると、似て来てるけどまだ何か同じ人という感がしない。まだ何か目の表情が違う感じする。何でかなあとか思ってたんですけど、十周年ということもあって、2005年頃のスチールとかもネットに上がって来てるの見ててふと、何か既視感を感じて思いついたのが、あの目の表情は田舎の部活少女が身内で盛り上がっているノリなのではなかろうかと思い至ったんですよ。

なんというか、まず部活ならではの身内の親密圏、またまわりの社会の大人も流動性なんて少なくて、顔ぶれが把握できるような(だから田舎)親密圏があって、その中で信頼してる具体的な存在に向けているような目線な気がするわけです。その点あーちゃんとかしゆかはアイドルという目標か具体像がわりとあって、不特定多数、しかも共有する空間を越えて写真の向こうにむけてどう表情をとればいいのかわかっている気がするという。

その点からみると2005年以前だとのっちの動画やらスチル見ると、アイドルに求める複製メディアで不特定多数に笑みを差し向ける要請からすれば、全国はアウトみたいに言えそうなものがそれなりにあるんじゃないかという気もします。知らないところにつれてこられて、パブリックやソーシャルな場でどんな顔したらいいいかわからないけど、部活は楽しいよみたいなドキュメントのような。まあ自分が意図したものが届くだけが表現じゃないし、素材天然でかわいいじゃん、いいやんというのも正論なんですけど。

でエレクトロ・ワールドみたいな初期のころは地方の部活少女が慣れないメイク、衣装を上から付けられて、いわば他人の丈の大きい着物借りてムリヤリ歩かされているような感じすらするんですが、しばらくたつと衣装もメイクも自分のものになってきて、部活少女の名残まといながらも表情こなれて、何かいわばアスリートの片鱗見せながらキャリア重ねていくんですが、部活少女の舞い上がった感は何か若干残ってる。だいたいそういう残っていた子供らしさ感から卒業してしまう転機になるのがDream Fighterあたりなんじゃないかと思っているんです。動きの大きいダンスと楽曲のリアルなメッセージ性を表現して、身長が三人で最も高くなったガタイの見栄えのする大きさをどうパフォームに活かすかということに結果が出た、踏ん切りがついたような気がします。で、ここら辺で外でどんな顔をしたらいいのかはっきり定まった、気にならなくなったという感じがするわけです。Perfume史から見ると武道館以後あたりかもしれませんけど。この仮説思いついたときは、Youtubeでおでこに前髪のあるPVはDream Fighterで最古なのかと思っていたんですが、それ以後の曲も割とありますね。しばらくするとモデルっぽい大人の装い、雰囲気になって表情もそれらしいものになってきます。しばらくするとのっち美人になった、美人になったと騒がれることになる。

結論としては本人の変化によって、目は人を表すといっても、目元も変わってくるんじゃないか、ということなんですが、こういう稚気豊かなという表情から、その内面をセーブしたり抑えて示唆するようにできる大人の静けさを得る、割と質的な変化がある場合それを何と命名しようかと考えたんですが、「ゴルゴ化」するってどうでしょう。

まあ十周年記念のMJ見てると広島時代みたいに大きな口開けて笑ってるし、全て「・・・」で感情を言うみたいな極端な人はいませんけど。あれはフキダシという技法で成り立ってるウソですし。でものっちのスチールに「・・・」てフキダシ重ねたもの見たくなります。

この記事を書くのに色々と番組以外にもYouTubeとか観てたんです、で上の記事と矛盾するようですけど、ずっと広島時代とかその直後の時期観てると(彼氏を募集中あたり)何かいまと共通する表情みたいなのが、見えるぞ、見えたぞみたいな発見があって面白かったです。笑うと目が三日月みたいに細まったり、眉がハの字になったりとか。何か逆に現在のパーツの方がちっちゃい頃に似てる。これだけ観てるともう現在ののっちがどうとかじゃなくて、いや加えて、こんな娘がいたら幸せなんだろうなあ、と遠い目してるおっさんでした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

ゼロ年代、MBS、ささやかな試し書き2

昨日あれ、何でかきあぐねたのかな、思いつかなくなったのかなと、ぼんやり思っていたんですが、seedもしくは一連のMBSのアニメにはとても一つだけ強く言いたいことがあって、それを忘れていたせいかもしれない、と思いあたった。書いてみる。昨日書いたみたいにseedはデザイナーズベイビーみたいな生命倫理の問題を煽動的に短絡化していて(デザイナーズベイビーが旧人類を支配しようとしている)題材にしていて、それはロボットの戦争を成立させるための単なる小道具としてではなく、作品の主題の根幹に及んでいる。技術や倫理をどう扱うかの社会の(合意の)問題はぼかすわけでリアリティは犠牲になるにせよ、実現される優生思想の欲望の問題を焦点化することになるのである。キラの秘密だとか、クルーゼの悪意の由来(そんなわけで彼がコーディネーターなのか、そうでないのか私はイマイチわかってない。あの真相なら非コーデなのでは)、ディステニープランとか。

クルーゼの最後の戦闘の台詞や「錬金術師」のタッカーの娘を使った錬成とかから感じるのは、おそらく局のPは(竹田さんといって元報道畑の人らしい)ホントに人間はやりたい、知りたいとか得たいと思ったら、自制することなくやるってことを信じている人なんだってことです。練金術師のエピソードてのは構成での位置づけっていう口実があって作り手の客体としてまだ機能してるんですが、seedシリーズは広げてしまった風呂敷(設定)に逆に言わされてる感、作らされている感が顕著で、憎悪を糧に総力戦してる設定で外部の勢力の立場もなかったら、一パイロットがいくら優秀でも人類滅亡させる話ならともかく詰むやんと思ったら、「戦争に戦争するんだっ!」てひっくり返して、伏線もなしに新勢力作って話の流れ変えてしまいうって物語にやらされている感ヒタヒタするわけです。おまけに次作では「人類の管理で平和実現」と引っくり返し、またひっくり返して「戦争は続く」で終わる。この作り手たちは自分が設定したこの世界信じてないんじゃないかって思ってましたもの。でもGレコの富野さんなら、いずれ地球に人類が住めなくなるって、本気で考えてるでしょう。そんな本気さはseedには感じないんです。

で局Pは報道の人なのでその場合素材は外部にあるので、彼の信じていることを虚構に具現化して表現する手法を、クリエーターにを呈示できなかったんじゃないかと思います。ジャーナリストは一応作っちゃいけないんですもの、ただ報道の意図はあっていいんですけど、創作では意図の伝え方はちがうでしょう。そのあたりわざと創作の流儀を無視して、あるいは報道と混同してプロデュースしていたような気もします。で昨日書いたように優生思想・ヘイトの連鎖・生命の手段化の三題噺に要約できるような作品を量産していくわけですが、その時思っていたのが、報道の人間なんだから、虚構で煽るんじゃなく、これらの主題でドキュメンタリー作れよ、手本示さなきゃクリエーターだって現実の問題をどんな手つきで扱っていいじゃわからないじゃないか、人間やりたければ何でもやるって言いたいんなら、事実で(検証可能な)示して説得くれないとクリエーターは信じられることしか表現できないよ、って思っていました。あまり詳しくないんですけど、生命倫理をそんな切り口で切ったドキュメンタリーって毎日放送からなかったと思います。

 

追記 この記事書きながら、新作のガンダムボトムズみたいじゃないか、という指摘を思い出したんですが、正直仮面ライダーみたいに会社の資産を一ブランドに突っ込む時代になったということではって考えてたんですけど、仮面ライダーって改造人間で医療の問題からんでますよね。そのまま毎日放送で竹田Pのプロデュースで仮面ライダーを見たかった気もします。MBS竹田Pが作った仮面ライダーにありそうなこと、とか妄想します。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

ゼロ年代、MBS、ささやかな試し書き

ちょっとゼロ年代毎日放送のアニメについて触れたので、補足を書いておきたいと思います。昨日も書いたように、国際社会の問題を外から導入してきて黒か白か煽るという話法は色々と被害者のアニメを生み出したともいえます。「ガンダムseed」シリーズなんて、これがなければあそこまではと思うし、「BLOOD+」なんてのもそうでしょう。「BLOOD+」なんて観てると、「スタンド・アローン・コンプレックス」みたいな頭のいい人しかわからないアニメなんか作っちゃだめだというような意思が感じられますもの。

ただseedシリーズがすごいと思うのは昨日も言いましたが、優生思想みたいな題材をガチでぶち込んできたところじゃないかと思います。コーディネーターっていう設定ですけど、普通、国家を形成できるほどの集団になるまえに、デザイナーベイビーって技術、絶対どっかで規制かかってるでしょ、デザイナーベイビーと自然児が戦争するってどんな厨二設定だよ、って思うんですが、これくらい短絡化してやらないと稚い人に優生思想って他人事だよねって考えたのなら腹立つんですけど(それはデマって手法)、それでも敷居の高い生命倫理の問題を取り上げたことは評価したいと思うんです。もちろんそれは専門家が積み上げてきた議論のちゃぶ台返しなのかもしれないという可能性も自省しなければいけないんですけど。

とりわけ初期の土6枠のアニメには面白いモチーフの共通点があって、一つは前述の優生思想、二つ目が対立する集団のヘイトの連鎖、三つ目は生命とりわけ人間の手段化、このモチーフがお互いの一部を含有しあう形で頻出してきます。まあきれいに揃うのはdestenyかなと思いますけどヘイトの問題は種の問題を示唆することも多かったのではないかと思います。

でここまで書いたんですけども、この問題系を各作品がどう発展させていったかがこの続きなんですけど、tumblr系のブログ、チェックしてたらごちうさのgifに引っかかってしまって、各キャラとか水瀬いのりとかが急に私の頭をジャックしてしまったんで続きは今度にしたいです。長いこと考えてきた題材なんですけど、的確な言葉を引き寄せられない。正直ごちうさみたいなのは合法ポルノだと思う。克てないよ、あんなの。チノも水瀬もかわいくて。三次元でも充分仕事したし。

 

最後まで読んでいただきありがとうございまいした。

土6の娘たち

ちょっと、この前の続きを書こうとして、コードギアスやseed系の名言まとめのぞいてみたんですが、なかなかseed系ってしんどいですねえ。ついていけないとおもうんですが、よくこんな題材(積極的優生とか)にふみこんだなって蛮勇は評価せざるを得ないところがある。この前は、難民をしようのコピーのネタっぽさとガンダム00の台詞のネタっぽさが実は似てるんじゃないかというところまででしたけど、それは何かというならば、煽る力、釣る力なんじゃないかと考えるわけです。でガンダム00が属する一連の毎日放送(放送時刻から土6とか日5とか呼ばれる)が制作してたアニメシリーズの魅力というか話法のスキルにある煽動性が難民をしようというコピーと同質のものなんじゃないかと考えて、ちょっと名言をのぞいてたんですよ。

seed系ってのは全編煽りというか釣りというか、現実社会なら炎上するような混同や無視を行使して作っているので、迷(名)ゼリフ満載で逆に作品全体をドライブさせていくようなコピーは曖昧なんですけど、たとえば「鋼の練金術師」(水島版)では、「奪われたものはとりかえす」って台詞がどんな物語かの惹句になってた、「コードギアス」なら「撃っていいのは撃たれる覚悟のある者だけだ!」とか「間違っているのは俺じゃない、世界の方だ!」だとか、この台詞をみれば物語がどんなドライブで駆られているのかわかる台詞がある。seed系だって守るために力が欲しいとかいう初めのドライブがあるわけです。

でこの種のドライブってのはできるだけストレートにしてあるんです。欲求が明確でその主体も(主人公)はっきりしてる。逆にいえば、プリミティブなものであるんだけどそれは幼いということでもあるんです。これが煽りたりうるのはまさにその点で、惹句の水準では黒か白か、通るか、通らないか、が最大の問題になってしまうことになるんです。問題を単純にしてしまう力を発揮するんですね。

シリア難民風刺画にしても、偽装難民もいるということを、不法移民を受け入れてはならないというふうに単純化、入れ替えてしまえる力を持っているわけで、前回はその読解に固定するのはよしたいと言ったのですが、それを煽りなり釣りなりと言ってきたわけですが、同様のレトリックをガンダムseedなりコードギアスの作品が駆使してるんじゃないかと思うわけです。

これは難しい国際社会の問題を専門家の壁の中から解放しよう、とりわけ稚い人にも世界の問題を考えてもらおうみたいな局Pの意欲だったんでしょうけど、同時に期せずして世界では難しい中東の問題が、アメリカのキリスト教保守も含めた市民に解放されて国際秩序が崩壊してしまう出来事さえも起こって、 ある意味世界史的なんだけど、感動的なのは「destiniy」で作品外の世界の崩壊と作品の破綻が同期してしまい、並のドキュメンタリーに劣らないライブ感が発生してしまったことです。まあ中東がうまくいかなかったように、現実は黒か白かで裁断できないわけです。難民の全てが偽装難民じゃないわけですし。

だから逆に物語はそのドライブが裏切られるように展開するわけで、それに翻弄されてちゃぶ台返しを繰り返すのがseed系、その翻弄をうまくとりこんでドライブの緊張の維持に仕えさせていたのがコードギアス、自然に現実を受け入れる風のビルディングスロマン型が錬金術師といったところでしょうか、といっても時間軸順に練金術の修行時代を先に描けば、母の死を受け入れないといった動機が成立しなくなって、作品が崩壊してしまうわけで、煽りを成立させるために何らかのトリックは使っているんです。

先に専門家から問題を解放させたかったのではと邪推しましたが、ある意味問題は逆にこんなレトリックで誰でも問題を単純化して煽ってみせる手段を啓蒙したことになったのではないのかということです。いわば社会問題化の民主化に貢献したのではないかということです。で結果はというと幅広い層のウヨ化でしょう。

私には慰安婦の捏造と戦っている人たちが「オーブぶっ潰す」とか叫んでるシンとか「世界は間違っている」と叫ぶルルーシュみたいに、あるいは安保法案に反対する人たちが「オーブ!戦うなあっ!」と泣き叫ぶカガリとか、「守りたいものがあるんだ(キリッ)」とかうそぶくキラみたいに見えます。私だけですが。ここで書いてきたものをふまえてみればみんな土6の見過ぎです。

さて私もアニメの見過ぎの奴でしたので、あの風刺画の少女を見て幻視したものを最後に置きます。前回、あのイメージの持つ喚起力、キャラクター化して得られた何か言いたげさについて擁護したいと思ったわけですが、私たちはそっくりそのままでないかもしれませんが、いずれあの少女に再会することになると思います、アニメの中で。必ずしも首肯できるわけではないが、十分な言い分を持ち物語で悪役として登場した魅力的な女性のキャラクターを私たちは知っているわけです。その新しい顔ぶれの一人として彼女に似た女性を見つけることになるのではないでしょうか。いやむしろ「プラネテス」のクレア(cv渡辺久美子)みたいな人がいたのをみれば、将来にありえる一つの未来の彼女にもう出会っているのかもしれません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。