キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

シリア難民中傷風刺画について

不穏当というかいささか不謹慎なことを言わせてもらいたいと思う。例のはすみとしこさんのシリア難民中傷風刺画の件である。あれを見ていると、何となくこうこみ上げてくるものがあったので穏当な範囲で吐きたいと思うのだ。

著作権の問題(トレース)でFacebookから既に削除されたようで、沈静化することになろう。がそのさいの風刺画の作者の声明ってのが何だかなあ、二次利用の恩恵で作品作ったのに、拡散は拒みたいとか、いいとこ取りだよなあ、頑なな人だなあ、と思い、続いて発表された、帰化を非難しているイラストをみると、発言、惹句を積み重ねて、ヘイトの内容を(まあ体面を何ら取り繕わない移民排斥)明確、にしているのをみると、つくづく表現を自分の想定する文脈に従わせたいのだな、と思ってしまう。作者の意図が最も優先される文脈だと考えて、占有権を主張したいという意味では、トレス元の写真家も風刺画の作者もあまり変わらない。写真家の抱く文脈は流通しやすく、風刺画の作者の抱く文脈がおおっぴらに流通し難いという違いがある話だ。じっさいたとえばシャルリ・エブドの溺死した難民の幼児の風刺画、これは正直ひどいと思わずにいられないものだが、あんなものでも、これは幼児を嘲笑するものではない、こんな状況を生み出し、打つ手のない西欧を含めた国際社会を非難していると擁護する人がいるのだ。それにくらべてこちらの風刺画の作者なり擁護する人は、この風刺画が社会的に存在できるかもしれない文脈を提案する能力に徹底的に欠けている。あからさまにPCに挑むような文脈を提案して、そのまま受容されるか、そうでないかのみに固執して、ろくな収穫がないというのは、どうなんだろうか。

それで、しかしあの風刺画が面白かったというか、議論を喚起することができたのはむしろあの風刺画が作者の意図と違って文脈が未定というか、開かれていたからだろう。当たり前の暮らしをしたいがために他人の財布をあてにしたいと念ずる、あの少女の来歴や背後は受け手の想像に委ねられている。そしてその理解によって少女の笑みを浮かべた不敵な表情が語ってくるものは違うのだ。そういう受け手に投げられたボールがある社会問題が隠していたり、見えなくしたりするものを見せたりするから、その表現に見いだしたものについて人は饒舌になることがあるのである。新作の帰化を非難するイラストは、一定の人の溜飲をさげるものかもしれないが、残念ながらこのような喚起力には欠けている。

とはいえもはや流通する文脈がPCとヘイトに、正しくありたいという感情と、阻害感を回復したい感情の葛藤に帰着しそうだからあの少女の笑みは不純で不義なものとみなされるでしょう。その点ではPCもヘイトも一致しているわけです。それはあの少女のキャラクター化して得られたもの云う力からすると少し残念なことだと思うので、まだ論争の記憶が新しい内に、あの少女への送辞もこめてしょうもない提案、楽しみ方の提案をしたいと思います。それは原画の写真からすれば、明らかな二次元的な見得を切っているイラストの力を楽しむのに背景や背後のコピーを変えたものを想像してみようといったものです。

わりあい組み合わせとして面白いかなと思っている例があって、それを挙げてみましょう。「機動戦士ガンダム00」の名台詞を背景を変えたりして背後のコピーに使ってみましょう。出典はNAVERのまとめあたりからです。

例えばよくでてくる刹那の「これより目標を駆逐する」、あの少女の背後に配置すると、ううん、アウトですねえ、もっと不穏なものになります。これなんてどうでしょう。刹那の「この世界に… 神なんていない…!」とか「自分だけ平和なら、それでいいのか?」あたり、なんか悪くなさそうな気もします。

他にはアレルヤなら「自ら引き金を引こうとしないなんて、罪の意識すら持つ気がないのかー!」とか、まあセリフが短すぎると何をいっているのかわかりません、元風刺画ほどメッセージをもつものにするなら「00」を精査して引用しなければなりませんが。

次にティエリアなら「自分は違う、自分には関係ない、違う世界の出来事だ。そういう現実から目を背ける行為が、無自覚な悪意となり、このような結果を招く。」こんなセリフなら、背景は破壊された市街ですかね。他には「君は現実を知らなすぎる。自分のいる世界ぐらい、自分の眼で見たらどうだ」とか「そうやって人を見下し続けるから、分かりあえない!」とか。

まあ元風刺画より左っぽくなったかもしれませんが、「難民をしよう!」というコピーのネタっぽさに既視感を感じてしまい、「00」の台詞回しのネタっぽさかもしれんと閃いた、遊戯の提案です。あんなレイシズムのイラストと全く違う00を掛け合わせるなんてと眉をひそめられる方もいるかもしれませんが、ネタっぽさにおいてどこか相い似たものを感じるのです。そしてそれは偶然ではないと考えるのですが、長くなったので続きます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

「うたわれるもの2」について少しだけ、

予定していた題材が、些か私事で心配事が起こって、題材もセンシティブな素材だったので、やはり必要以上に不穏当さを醸し出したくはないのから気はそれなりに割きたいので、今書き上げることができなくなってしまった。

で何を書けばというところなのだが、ふと一つ備忘録的な意味で触れておかなければと思っていたことを思い出した。

最近アニメを改めて観ようと思い始めていることはすでに書いたのだが、そんなわけでレコーダーのハードディスクをポチポチのぞき始めたのだが、「うたわれるもの2」を少し再生してみたのだ。びっくりした。ヒロインの声がまるで川澄綾子さんだったからだ。いや、待てよ、こんな話題作に仕事の少なくなったベテラン駆り出すことはないぞ、艦これに出てたのだってびっくりしたのにと思って、キャストを見ると種田梨紗さんだった。たしか同じ事務所(大沢事務所)なのだが、こんなことあるのかいと驚嘆したのだった。

たしか大沢事務所では、川澄さん、能登麻美子さんの世代のあと、次世代でアニメの声優を仕事のメインにしているのは花澤香菜さんと井口裕香さんのみという時期が長かったのだが(中尾依里さんはとりあえず話からはずす)、種田梨紗さんの所属以降、日高里菜さんとか久野美咲さんとか一気に若手が増えた。割合、採用傾向としてウィスパー系というか、ブレスノイズ系という気がするのだが、たとえば「いぬぼく」での日高さんの演技はブレスの残りやりすぎだろうと思うくらいだったわけで、とはいえ2000年代前半くらいの川澄さんみたいな空気感を耳にするとはおもわなかった。

発声するときの喉が詰まった感じとか、発声を閉じたときに残るブレスに乗る喉の鳴りとか、語りおろすときの抑揚のなさの性急な調子な挙動とか(ようするにある種の棒感)、「藍より青し」とか「頭文字D」の頃の川澄さんみたいな感じを想起するのだ。

よく聴けば、ベースの声質は少し違うので、キャラクターを作っていったときに生じた偶然だと思われるのだが、ちょっと過去の出演作をチェックしてみたくなった。「新世界より」、少しは観たのだが、そんな気配は感じなかったのにな。

とはいえ、川澄さんの歌は真似できる人はまずいないと思う。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

Mステとオタク文化

最近、ミュージックステーション初音ミクが紹介されることがあった。また、水樹奈々も出演したことがあって時代も変わったのだなあと思った。「けいおん!」の昔から、アニメソングや声優が歌う曲が上位にチャートインしたとき、オタクというかアニメファンは歓喜したものだが、そこでミュージックステーション(以下Mステ)でアニメのワンシーンや声優のPVが一瞬流れたときのスタジオの反応はよく話題になったものだった。その曲への関心のありようがオタク系の表現がどれくらい世に受け入れられているかをはかるモノサシの一つとあえて仮構して、つまりネタにして遊んでいたんだと思う。

ここから書くのはとくに対象に確認をとったわけではなく、仮説というか妄想なのだが、なぜ水樹奈々なりオタク系の曲がMステで敬遠されていたのか、思うところがあったので、書いてみたい。

わりあいMステっていうのは後発の歌番組で、それ以前にベストテンやらヒットスタジオというものもあった。あえてMステ以降以後を無理矢理定義してみると、以前の歌番組というのは、ヒット曲全般を全年齢に対して紹介するものだったが、いまでもそのタテマエでやってるのが紅白、Mステ以降、というよりもうメジャーなのはMステしか残ってないが、ジャンルなり聞き手の対象年齢・集団をある程度特化するようになったのではないかと思う。ある意味歌番組は「演歌の花道」化しないとやっていけなくなったのだと考える。Mステはたとえば「ボクらの赤絨毯」とかいうところだろうか。Mステはアイドルも含めたいわゆるJポップの勃興みたいなものをうまいことすくいあげたのだと思う。

で問題となるのは、アニソンってのはタコツボ化した歌番組の中でMステが取り上げる題材かねっていった時に、そうじゃないだろう、って局が最近まで考えていたんじゃないかって思ってる。で冒頭の変化は何で起こったのかというと、端的には水樹奈々の浸透とか(どうも紅白にアニメ枠みたいなのができて、彼女が連続出場)、ボーカロイドが受け入れられたり(千本桜とか)、といったところなのだろうが、ボーカロイドの件も含めて、ラブライブ現象とか意外とマスにアニメ文化、オタク系の文化が浸透してきて無視できないという認識の変化があったのではないか。まあ、私自身はあまりこの認識を信じきれてないが。ちなみにそんなわけでラブライブは過小評価すべきでないと思っている。意外と大きい影響があって、揶揄はされてもそれはなかなか言語化されてないのでは、とアタリをつけているんだが、どうだろう。

あと次はホントに妄想なのだが、テレビ朝日のMステとしては、社会現象としての深夜アニメをできたらスルーしたかったのかもしれないと思う。テレ朝ってのは子供向けのコンテンツってのは、ニチ朝を見ればわかるように、厳格な見識を持っていて、コンテンツが誰向けで、何を見せたいかってのがはっきりしている。バラエティのアニメ名場面集みたいなもの見てても、局のアニメ事業の視野の延長で企画してるような気がする。基本アニメはある程度の逸脱はあるにしても(子供にふさわしいものならむしろ歓迎されたりする)子供に見せて恥ずかしくないものなのである。しかしそのガイドラインから扱いかねる作品だと、たとえばガンダムなんかメーテレから取り上げたのにMBS仮面ライダーと交換してしまうのである(まあある意味この両局は腸捻転の因縁があるのだが、腸捻転以前だとTBSではなくテレ朝で仮面ライダーを放送していたのかな)。ある意味子供向けのルールを逸脱した深夜アニメを紹介できる言葉を持っていなかったと思うのだ。

また深夜アニメという市場があるときに局として日中のアニメなりのガイドラインを持っていなかった、結果乗り遅れた、ということもそれに棹さす形になったのではと考える。TBSはUHF局と組んで深夜で放送する作品のジャンル(結局萌えに帰着する)を開拓していった、あるいはフジはノイタミナ枠で深夜ならではの自由さを持つ作品を掘り下げていったが、ああ、日テレも青年誌の原作を中心としたアニメ化みたいな特色もあるのか、とくにテレ朝は深夜に方針といえるほどの作品の量を投下していなかったと思う。今では、明らかに局がかんだ「新世界より」みたいな例もできたが、局なりの色合いというのは、見えない。まあもっとも局なりの色合いっていう境目が曖昧になりつつあるという気もするのだが。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

書き始めて(まめに)、1ケ月。

1ケ月くらいなんとか続けてきたので、自分がどういうことを書いていきたのか、どんな書き手なのか、考えてみようと思ったのだが、なんとなしにネタが見つかったので、他のことを書いてしまい、忘れていた。この前の記事でこれを少し書き始めて、時事については折にふれ書きたいなあ、という趣旨のことを書いた。少なくともライフハックとか恋愛あるあるの書き手ではないのだと、わかる。ちなみに日常あるある、どう思う系の記事は、自分鑑みの用でよくみるのだが、ああいう共感への喚起する力で読者を集めているような人はやはりすごいなあと思う。マネできないし、その引き出しの多さは羨ましい。

しかし取材の力も資も今のところはないし、今は我慢である。あきらめると言わないのは人生の楽しみがそこにある分野の一つに目をつぶるのに平気だと言ってるようなものなので、倫理的ではないと考えるからである。とはいえ、男女のことなんて、よっぽどのことがないと書かないと思うが。
でどんな書き手、あるいはどんなブログかといえば、世の中のことを考えてみましょうよ、でもみんなと同じこと考えなくてもいいよ、たとえばこんなのどう、と提案するブログなのかなあと思う。あるいは世の中について考えるって一つのホビーでしょ、じゃあこんな切り口どう、とか。
誤解してもらいたくないのが、いや、してもいいか、遊びましょうということではなく、頑なな姿勢というのは問題の解決に必ずしもつながらなくて、むしろこれくらいの方が問題の記述を的確にできて、有効な解決策を提案できることもあるのでは、みたいな考えという点でしょうか。できるかどうかではなく、こういう欲望で書いていきたいといったところなのですが。
まあ、世の中のことについてだけ書きたいというだけではないのです。いくらか書きましたが作品なり、文化の批評への欲望もあるわけです。このあたりはてなの多くのサヨクさんと同質なんですが、そういう点で現在放送中のアニメについてリアルタイムでレビューしたいなあといった企みもあるわけですが、できるかなあというところです。シャフトの新房作品については色々言いたくなったこともあったし。
これからも興味を持っていただければさいわいです。
 
最後まで読んでいただきありがとうございた。