キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

ゼロ年代、MBS、ささやかな試し書き2

昨日あれ、何でかきあぐねたのかな、思いつかなくなったのかなと、ぼんやり思っていたんですが、seedもしくは一連のMBSのアニメにはとても一つだけ強く言いたいことがあって、それを忘れていたせいかもしれない、と思いあたった。書いてみる。昨日書いたみたいにseedはデザイナーズベイビーみたいな生命倫理の問題を煽動的に短絡化していて(デザイナーズベイビーが旧人類を支配しようとしている)題材にしていて、それはロボットの戦争を成立させるための単なる小道具としてではなく、作品の主題の根幹に及んでいる。技術や倫理をどう扱うかの社会の(合意の)問題はぼかすわけでリアリティは犠牲になるにせよ、実現される優生思想の欲望の問題を焦点化することになるのである。キラの秘密だとか、クルーゼの悪意の由来(そんなわけで彼がコーディネーターなのか、そうでないのか私はイマイチわかってない。あの真相なら非コーデなのでは)、ディステニープランとか。

クルーゼの最後の戦闘の台詞や「錬金術師」のタッカーの娘を使った錬成とかから感じるのは、おそらく局のPは(竹田さんといって元報道畑の人らしい)ホントに人間はやりたい、知りたいとか得たいと思ったら、自制することなくやるってことを信じている人なんだってことです。練金術師のエピソードてのは構成での位置づけっていう口実があって作り手の客体としてまだ機能してるんですが、seedシリーズは広げてしまった風呂敷(設定)に逆に言わされてる感、作らされている感が顕著で、憎悪を糧に総力戦してる設定で外部の勢力の立場もなかったら、一パイロットがいくら優秀でも人類滅亡させる話ならともかく詰むやんと思ったら、「戦争に戦争するんだっ!」てひっくり返して、伏線もなしに新勢力作って話の流れ変えてしまいうって物語にやらされている感ヒタヒタするわけです。おまけに次作では「人類の管理で平和実現」と引っくり返し、またひっくり返して「戦争は続く」で終わる。この作り手たちは自分が設定したこの世界信じてないんじゃないかって思ってましたもの。でもGレコの富野さんなら、いずれ地球に人類が住めなくなるって、本気で考えてるでしょう。そんな本気さはseedには感じないんです。

で局Pは報道の人なのでその場合素材は外部にあるので、彼の信じていることを虚構に具現化して表現する手法を、クリエーターにを呈示できなかったんじゃないかと思います。ジャーナリストは一応作っちゃいけないんですもの、ただ報道の意図はあっていいんですけど、創作では意図の伝え方はちがうでしょう。そのあたりわざと創作の流儀を無視して、あるいは報道と混同してプロデュースしていたような気もします。で昨日書いたように優生思想・ヘイトの連鎖・生命の手段化の三題噺に要約できるような作品を量産していくわけですが、その時思っていたのが、報道の人間なんだから、虚構で煽るんじゃなく、これらの主題でドキュメンタリー作れよ、手本示さなきゃクリエーターだって現実の問題をどんな手つきで扱っていいじゃわからないじゃないか、人間やりたければ何でもやるって言いたいんなら、事実で(検証可能な)示して説得くれないとクリエーターは信じられることしか表現できないよ、って思っていました。あまり詳しくないんですけど、生命倫理をそんな切り口で切ったドキュメンタリーって毎日放送からなかったと思います。

 

追記 この記事書きながら、新作のガンダムボトムズみたいじゃないか、という指摘を思い出したんですが、正直仮面ライダーみたいに会社の資産を一ブランドに突っ込む時代になったということではって考えてたんですけど、仮面ライダーって改造人間で医療の問題からんでますよね。そのまま毎日放送で竹田Pのプロデュースで仮面ライダーを見たかった気もします。MBS竹田Pが作った仮面ライダーにありそうなこと、とか妄想します。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

ゼロ年代、MBS、ささやかな試し書き

ちょっとゼロ年代毎日放送のアニメについて触れたので、補足を書いておきたいと思います。昨日も書いたように、国際社会の問題を外から導入してきて黒か白か煽るという話法は色々と被害者のアニメを生み出したともいえます。「ガンダムseed」シリーズなんて、これがなければあそこまではと思うし、「BLOOD+」なんてのもそうでしょう。「BLOOD+」なんて観てると、「スタンド・アローン・コンプレックス」みたいな頭のいい人しかわからないアニメなんか作っちゃだめだというような意思が感じられますもの。

ただseedシリーズがすごいと思うのは昨日も言いましたが、優生思想みたいな題材をガチでぶち込んできたところじゃないかと思います。コーディネーターっていう設定ですけど、普通、国家を形成できるほどの集団になるまえに、デザイナーベイビーって技術、絶対どっかで規制かかってるでしょ、デザイナーベイビーと自然児が戦争するってどんな厨二設定だよ、って思うんですが、これくらい短絡化してやらないと稚い人に優生思想って他人事だよねって考えたのなら腹立つんですけど(それはデマって手法)、それでも敷居の高い生命倫理の問題を取り上げたことは評価したいと思うんです。もちろんそれは専門家が積み上げてきた議論のちゃぶ台返しなのかもしれないという可能性も自省しなければいけないんですけど。

とりわけ初期の土6枠のアニメには面白いモチーフの共通点があって、一つは前述の優生思想、二つ目が対立する集団のヘイトの連鎖、三つ目は生命とりわけ人間の手段化、このモチーフがお互いの一部を含有しあう形で頻出してきます。まあきれいに揃うのはdestenyかなと思いますけどヘイトの問題は種の問題を示唆することも多かったのではないかと思います。

でここまで書いたんですけども、この問題系を各作品がどう発展させていったかがこの続きなんですけど、tumblr系のブログ、チェックしてたらごちうさのgifに引っかかってしまって、各キャラとか水瀬いのりとかが急に私の頭をジャックしてしまったんで続きは今度にしたいです。長いこと考えてきた題材なんですけど、的確な言葉を引き寄せられない。正直ごちうさみたいなのは合法ポルノだと思う。克てないよ、あんなの。チノも水瀬もかわいくて。三次元でも充分仕事したし。

 

最後まで読んでいただきありがとうございまいした。

土6の娘たち

ちょっと、この前の続きを書こうとして、コードギアスやseed系の名言まとめのぞいてみたんですが、なかなかseed系ってしんどいですねえ。ついていけないとおもうんですが、よくこんな題材(積極的優生とか)にふみこんだなって蛮勇は評価せざるを得ないところがある。この前は、難民をしようのコピーのネタっぽさとガンダム00の台詞のネタっぽさが実は似てるんじゃないかというところまででしたけど、それは何かというならば、煽る力、釣る力なんじゃないかと考えるわけです。でガンダム00が属する一連の毎日放送(放送時刻から土6とか日5とか呼ばれる)が制作してたアニメシリーズの魅力というか話法のスキルにある煽動性が難民をしようというコピーと同質のものなんじゃないかと考えて、ちょっと名言をのぞいてたんですよ。

seed系ってのは全編煽りというか釣りというか、現実社会なら炎上するような混同や無視を行使して作っているので、迷(名)ゼリフ満載で逆に作品全体をドライブさせていくようなコピーは曖昧なんですけど、たとえば「鋼の練金術師」(水島版)では、「奪われたものはとりかえす」って台詞がどんな物語かの惹句になってた、「コードギアス」なら「撃っていいのは撃たれる覚悟のある者だけだ!」とか「間違っているのは俺じゃない、世界の方だ!」だとか、この台詞をみれば物語がどんなドライブで駆られているのかわかる台詞がある。seed系だって守るために力が欲しいとかいう初めのドライブがあるわけです。

でこの種のドライブってのはできるだけストレートにしてあるんです。欲求が明確でその主体も(主人公)はっきりしてる。逆にいえば、プリミティブなものであるんだけどそれは幼いということでもあるんです。これが煽りたりうるのはまさにその点で、惹句の水準では黒か白か、通るか、通らないか、が最大の問題になってしまうことになるんです。問題を単純にしてしまう力を発揮するんですね。

シリア難民風刺画にしても、偽装難民もいるということを、不法移民を受け入れてはならないというふうに単純化、入れ替えてしまえる力を持っているわけで、前回はその読解に固定するのはよしたいと言ったのですが、それを煽りなり釣りなりと言ってきたわけですが、同様のレトリックをガンダムseedなりコードギアスの作品が駆使してるんじゃないかと思うわけです。

これは難しい国際社会の問題を専門家の壁の中から解放しよう、とりわけ稚い人にも世界の問題を考えてもらおうみたいな局Pの意欲だったんでしょうけど、同時に期せずして世界では難しい中東の問題が、アメリカのキリスト教保守も含めた市民に解放されて国際秩序が崩壊してしまう出来事さえも起こって、 ある意味世界史的なんだけど、感動的なのは「destiniy」で作品外の世界の崩壊と作品の破綻が同期してしまい、並のドキュメンタリーに劣らないライブ感が発生してしまったことです。まあ中東がうまくいかなかったように、現実は黒か白かで裁断できないわけです。難民の全てが偽装難民じゃないわけですし。

だから逆に物語はそのドライブが裏切られるように展開するわけで、それに翻弄されてちゃぶ台返しを繰り返すのがseed系、その翻弄をうまくとりこんでドライブの緊張の維持に仕えさせていたのがコードギアス、自然に現実を受け入れる風のビルディングスロマン型が錬金術師といったところでしょうか、といっても時間軸順に練金術の修行時代を先に描けば、母の死を受け入れないといった動機が成立しなくなって、作品が崩壊してしまうわけで、煽りを成立させるために何らかのトリックは使っているんです。

先に専門家から問題を解放させたかったのではと邪推しましたが、ある意味問題は逆にこんなレトリックで誰でも問題を単純化して煽ってみせる手段を啓蒙したことになったのではないのかということです。いわば社会問題化の民主化に貢献したのではないかということです。で結果はというと幅広い層のウヨ化でしょう。

私には慰安婦の捏造と戦っている人たちが「オーブぶっ潰す」とか叫んでるシンとか「世界は間違っている」と叫ぶルルーシュみたいに、あるいは安保法案に反対する人たちが「オーブ!戦うなあっ!」と泣き叫ぶカガリとか、「守りたいものがあるんだ(キリッ)」とかうそぶくキラみたいに見えます。私だけですが。ここで書いてきたものをふまえてみればみんな土6の見過ぎです。

さて私もアニメの見過ぎの奴でしたので、あの風刺画の少女を見て幻視したものを最後に置きます。前回、あのイメージの持つ喚起力、キャラクター化して得られた何か言いたげさについて擁護したいと思ったわけですが、私たちはそっくりそのままでないかもしれませんが、いずれあの少女に再会することになると思います、アニメの中で。必ずしも首肯できるわけではないが、十分な言い分を持ち物語で悪役として登場した魅力的な女性のキャラクターを私たちは知っているわけです。その新しい顔ぶれの一人として彼女に似た女性を見つけることになるのではないでしょうか。いやむしろ「プラネテス」のクレア(cv渡辺久美子)みたいな人がいたのをみれば、将来にありえる一つの未来の彼女にもう出会っているのかもしれません。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

シリア難民中傷風刺画について

不穏当というかいささか不謹慎なことを言わせてもらいたいと思う。例のはすみとしこさんのシリア難民中傷風刺画の件である。あれを見ていると、何となくこうこみ上げてくるものがあったので穏当な範囲で吐きたいと思うのだ。

著作権の問題(トレース)でFacebookから既に削除されたようで、沈静化することになろう。がそのさいの風刺画の作者の声明ってのが何だかなあ、二次利用の恩恵で作品作ったのに、拡散は拒みたいとか、いいとこ取りだよなあ、頑なな人だなあ、と思い、続いて発表された、帰化を非難しているイラストをみると、発言、惹句を積み重ねて、ヘイトの内容を(まあ体面を何ら取り繕わない移民排斥)明確、にしているのをみると、つくづく表現を自分の想定する文脈に従わせたいのだな、と思ってしまう。作者の意図が最も優先される文脈だと考えて、占有権を主張したいという意味では、トレス元の写真家も風刺画の作者もあまり変わらない。写真家の抱く文脈は流通しやすく、風刺画の作者の抱く文脈がおおっぴらに流通し難いという違いがある話だ。じっさいたとえばシャルリ・エブドの溺死した難民の幼児の風刺画、これは正直ひどいと思わずにいられないものだが、あんなものでも、これは幼児を嘲笑するものではない、こんな状況を生み出し、打つ手のない西欧を含めた国際社会を非難していると擁護する人がいるのだ。それにくらべてこちらの風刺画の作者なり擁護する人は、この風刺画が社会的に存在できるかもしれない文脈を提案する能力に徹底的に欠けている。あからさまにPCに挑むような文脈を提案して、そのまま受容されるか、そうでないかのみに固執して、ろくな収穫がないというのは、どうなんだろうか。

それで、しかしあの風刺画が面白かったというか、議論を喚起することができたのはむしろあの風刺画が作者の意図と違って文脈が未定というか、開かれていたからだろう。当たり前の暮らしをしたいがために他人の財布をあてにしたいと念ずる、あの少女の来歴や背後は受け手の想像に委ねられている。そしてその理解によって少女の笑みを浮かべた不敵な表情が語ってくるものは違うのだ。そういう受け手に投げられたボールがある社会問題が隠していたり、見えなくしたりするものを見せたりするから、その表現に見いだしたものについて人は饒舌になることがあるのである。新作の帰化を非難するイラストは、一定の人の溜飲をさげるものかもしれないが、残念ながらこのような喚起力には欠けている。

とはいえもはや流通する文脈がPCとヘイトに、正しくありたいという感情と、阻害感を回復したい感情の葛藤に帰着しそうだからあの少女の笑みは不純で不義なものとみなされるでしょう。その点ではPCもヘイトも一致しているわけです。それはあの少女のキャラクター化して得られたもの云う力からすると少し残念なことだと思うので、まだ論争の記憶が新しい内に、あの少女への送辞もこめてしょうもない提案、楽しみ方の提案をしたいと思います。それは原画の写真からすれば、明らかな二次元的な見得を切っているイラストの力を楽しむのに背景や背後のコピーを変えたものを想像してみようといったものです。

わりあい組み合わせとして面白いかなと思っている例があって、それを挙げてみましょう。「機動戦士ガンダム00」の名台詞を背景を変えたりして背後のコピーに使ってみましょう。出典はNAVERのまとめあたりからです。

例えばよくでてくる刹那の「これより目標を駆逐する」、あの少女の背後に配置すると、ううん、アウトですねえ、もっと不穏なものになります。これなんてどうでしょう。刹那の「この世界に… 神なんていない…!」とか「自分だけ平和なら、それでいいのか?」あたり、なんか悪くなさそうな気もします。

他にはアレルヤなら「自ら引き金を引こうとしないなんて、罪の意識すら持つ気がないのかー!」とか、まあセリフが短すぎると何をいっているのかわかりません、元風刺画ほどメッセージをもつものにするなら「00」を精査して引用しなければなりませんが。

次にティエリアなら「自分は違う、自分には関係ない、違う世界の出来事だ。そういう現実から目を背ける行為が、無自覚な悪意となり、このような結果を招く。」こんなセリフなら、背景は破壊された市街ですかね。他には「君は現実を知らなすぎる。自分のいる世界ぐらい、自分の眼で見たらどうだ」とか「そうやって人を見下し続けるから、分かりあえない!」とか。

まあ元風刺画より左っぽくなったかもしれませんが、「難民をしよう!」というコピーのネタっぽさに既視感を感じてしまい、「00」の台詞回しのネタっぽさかもしれんと閃いた、遊戯の提案です。あんなレイシズムのイラストと全く違う00を掛け合わせるなんてと眉をひそめられる方もいるかもしれませんが、ネタっぽさにおいてどこか相い似たものを感じるのです。そしてそれは偶然ではないと考えるのですが、長くなったので続きます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。