キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感3

響鬼の困難

 響鬼では視聴者と同じ目線の人物が日常にある問題に当事するドラマがメインで、ヒーローのドラマがサブで描かれる構想だったのでは、と書いてきた。実際本編でも二つのドラマが並行して進んでいる。ここからはこの思いつきのとんでもない点にふれたいのだが、この構想には難所、隘路めいたものがそもそもあり、役者を見て思いついた内容にしては、それが枝葉の部分の修正、追加に留まらない企画の主旨の根っこに関わる部分だったため、準備不足やら、考えて答えを出すのが間に合わないという事故になってしまったのではないか、と考えるのである。

wikiをみると、企画の時点での響鬼の基本コンセプトは「師匠と弟子のバディもので、弟子となる若者の視点を中心としたジュブナイル」といったものだという。これが弟子にならないという修正が加わると、ドラマの筋が複数になる。これは結構劇をつくる上で大きな変更である。しかも日常側の主人公には4クールの一貫した、子供に見せてもおかしくないような、物語の道筋が必要である。これは役者を見て急に考えた変更にしては無理筋ではないか。根っこから企画し直す必要があるくらい、ちゃんと考えないと破綻しかねない変更だと思う。

それと実はこの変更の深刻さを文芸面でスタッフがちゃんと理解して考える対応をしていたのか、なんとなく疑問にも思っているのだ。そうではないと思いたいのだが、視聴者のぼくらが、弟子になるのかな、ならないのかなと釣られているのと同レベルで、バディまがいの仲のいい雰囲気だと、別に成長なり変化のための葛藤やら障害仕込まなくても、従来のヒーローもののパターンなり用意してあったプロットなりで話進めることも可能だろう。徒に話数を消費することだってありうるのだ。実際中学生日記と揶揄されるような、誰もが経験したような、逆に言えば月日が経つと気にならなくなった類いの葛藤を処理していく日常と、仕事として妖怪退治していく淡々とした日々が進んでいたのである。しかし、日常側のドラマを一貫した道筋のあるものにするには何らかの大きな課題が必要なはずで、それが出現する気配が前半一切なかった。明日夢が鬼になるかならないか、「テレビシリーズの展開を見ながら落ち着くべきところを探っていく」とはいうもののそれを見定めるような仕掛けをしていたかは疑問に思う。

ここでこんなことを始めた必然性の仮説を振り返り、日常側にどんなドラマが用意されていたのか考えてみたい。

クウガでは日常的な重みのあるドラマを主人公の雄介がどんな人間か浮き出すための地として奉仕させることも多い、というか主人公にもたらしていく変化として繋げなければならない。そして番組の性格上、主人公の行動は怪人を倒すことに帰結するのだから、どんなに素晴らしい台詞、交流が(それが現実と地続きのものでも)あっても、怪人を倒せるような非現実で切り離された特別な人のものになってしまう。そのような代償満足ではなく、本当にこの番組を届けたい視聴者、まして複雑さを増す社会にいる視聴者、に変化を与えるような力を特撮は持てるのか、そんな命題に挑む試みとして、日常の問題に当事する人物の方を主軸に置いて、怪人と対峙するヒーローの物語がそれを浮き出す地のような物語を、役者の佇まいを見た時、おそらくPは直感したんだと思う。

ではその物語がどんなものだったのかということだが、観れば容易にわかると思うが、「父親探し」である。おそらく、クウガの25・26話の霧島拓君の物語が念頭にあったのだと思う。で、このエピソードの先の五代雄介のグロンギとの対決の挿話ではない少年の人生の中の変化というようなものを描きたかったんだろう。

とはいえ、明日夢君と響鬼さんが仲よくなるのはいいが、それでは、クウガの霧島君が元父親の実家のまわりを彷徨っている状態のときと実はあまり変わらない。上に書いたように問題はそこからどうにか展開しないと説得力ある結末とはならないことである。

しかし唐突に28、29話となって、前半のまとめ、総括みたいな話を作って高寺Pの前半は終わり、後半に引き継がれる。実際クウガの25.26話の粗筋をみると響鬼の28、29話はクウガの25、26話の再話に見えなくもない。クウガの時と同じ結論を再確認したと言えるだけかもしれない。ただやはり少しのニュアンスの違いがあって、クウガの時は悩むことも含めて自分を受け入れたらいい、という肯定のニュアンスが強いが、響鬼では、自分を受け入れる、信じるのは一緒だが「現実はつらい」という言葉、現実の持つつらさを受容しようというニュアンスが加わっている。台詞だけで解釈、構築するというのはつらいし、あまり好みでないし強引なので、補足してみると、28、29話では日常の理不尽な悪意に明日夢君が傷ついた後という内容が唐突に示され、そのことをどう受け止めるかが28、29話で描かれている。

この28、29話はそのプロデューサーの交替を控えて、前話からの展開が唐突でそれなりの量を使って描くエピソードの要約、結末を示したと言える圧縮した感があることを考慮すると、後半の展開、または響鬼が描きたいと思った日常のドラマの課題へのヒントがそこに秘められていると考えてみたい。それが「現実はつらい」なのだと思う。

だから大魔神カノンがあんな話だったのだ。

 

長いよ、終わらないよ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。