キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

王様は裸だ案件と私たちの孤独

昨日、コヤマエミのtweetを見てて少しへこんだ。またその前に「ガメ・オベールの日本語練習帳v」を見てて少しへこんでいた。へこんでまたへこんだ。まあ共通点といえば外から見た日本というところになるのか。

まずはコヤマさん@emigirl 9月23日のtweet

「元慰安婦謝罪と賠償をという主張と性労働者の環境改善をという主張は、全く矛盾しないどころか根本的に同じ原理から発しているのに、韓国の性労働者運動を利用して慰安婦運動を否定しようとするバカが多い。」

本音だろうけど正直釣りだと思う。だって「性奴隷」というラベリングで人身売買を非難しているのか、性労働が非難されてるのか、わからない、少なくとも「非の打ち所がない被害者」だから救済されるべきと人身売買の一般的な例から切り離し、安倍氏が人身売買の悲劇に共感を示しても、罪を矮小化するのかと激高するくらい正直、強制のスティグマ大好きとセンセーショナルな枠組みに固執して謝罪と賠償を求める韓国の世論に、慰安婦に関心もってる日本の人々は常々接しているので、普通の性労働者の環境改善、労働運動に共感をもつ人はいても、それが同じ原理を共有していることに至る人はなかなか奇特で、説明が欲しいと思う人がたくさんいるだろうから。慰安婦の当事者が自分のイノセントな被害者であることを強調することからくる加害の非人道性と性労働者が労働者としての権利を剥奪されている非人道性はなかなか一つには結びつかない。元慰安婦性労働者の環境改善に声を挙げた、とは聞かない。

するとこうつっこむ人が現れる。田山たかし@neon_shuffle9月24日のtweet

「何で日本統治時代の性労働はNGで、今日の性労働はOKなの? QT : 元慰安婦謝罪と賠償をという主張と性労働者の環境改善をという主張は、全く矛盾しないどころか根本的に同じ原理から発しているのに、韓国の性労働者運動を利用して慰安婦運動を否定しようとするバカが多い。」

もちろんどんな原理か説明しないから、普通に依拠する原理があるのであれば知りたいだろう。日本の慰安婦を巡る理解の現状をみればそれも当然のことであるし、コヤマ氏は説明すればいいだけの話ではないか、嫌がらせであっても啓蒙にはなるだろう、自分で振ったんだし。しかしこうなる。コヤマエミのtweet

性労働はOKかNGか?」なんて問いの立て方がおかしい。てゆーか、わかっていて、嫌がらせで絡んできているんでしょ?やめてね。

AかBかがおかしいなら、そうではなくCかDを提案することもできるはずだし、条件付きでOKとか原則NGだが例外を認めるとか答えることができないはずないだろう。コヤマ氏のブログを見れば急進的な性労働反対が現実の性労働者をむしろ追い込んでしまうなどの事例が書いてある。そこから何らかの回答はできるだろう。慰安婦については問題は人身売買による奴隷的な使役であって、それは人道の問題であって謝罪と賠償が対応すべきであって、労働が搾取されている非人道性であっても対応する解は違うのだとか言えるのではないか、よくわからないけど。しかし、コヤマ氏はバカだとか議論の舞台に上がってないと言ってその先を語らない。

実際のところ慰安婦運動については、センセーショナルな枠組みを放置して性奴隷であるのを強調するのを放置しとけば、現在の性労働とて経済的な背景を考慮すれば似たところもあるだろうし、どうなるのと素朴な疑問を抱く人くらいいるだろうし、あまり現実の被害を考えるのによくない影響があるのではないか。

実は、twitterなどの日本語の議論は趣味でするものだと言っているので、思わせぶりなこと言って、わざと釣って遊んでいるのではないか。アクティビストの熱意と弱者とともにある怒りには尊敬するが、そういう熱意を持ち合わせていない冷笑的な人を釣り上げて、アクティビストなりの持ち合わせた使命感の高みから、見下して、怒ってみせて、何か溜飲をさげているような気がする。

で同時にボストン美術館のコスプレイベントの話も蒸し返されていて、おそらく焦点はこんなところ、コヤマ氏のtweet

「問題は「理解できていない」ことじゃないのよ。本当の問題は「差別を受けたという人々の主張を自分が理解できないから、差別ではない」と決めつけること。まず「当事者の訴えが妥当なのか、自分には簡単には判断することはできない」と認めるのが必要。

正論である。アイデンティティ・ポリティクスの主張としてまっとうである。がこちらは日本でもある。当事者が差別だというと色んなことが通ったという時代への反省はあるのだ。あまり言いにくいことだが、そんな国では逆に自分の主張を主観から妥当だと主張できるナイーブさは逆に疑われることになる。むしろアイデンティティ・ポリティクスがまっとうな戦略であるところでは際立たないかもしれないが、当事者への批判が間違っているのか、当事者が簡単にその主張を妥当だと判断することができるのかと問う非対称が日本ではある気がする。

これをおぞましいという人もいるだろう。ある意味日本特有な事情というか、誉めた話ではないだろうが、いやむしろこの冷笑は悲しむべきだろうが、この国では「簡単に判断できないこと」は当事者にも投げかけられるのだと思う。いわば王様は王様だが同時に裸でもある。だから、「文化的盗用」と言っても誤解を含んだ受容の生産性というツッコミも来るし、人身売買と性労働の微妙な点を腑分けする原則って何だよって話にもなる。

 

「ガメ・オベールの日本語練習帳v」だが最近のものを読むと1980年代の日本の自動車と家電が経済のエンジンとして牽引していた時代を引きながら、現在の日本の没落を指摘する手際は見事であり、私たちが隣国をからかいながらも先の見えなさは五十歩百歩なことには暗澹もする。また安倍総理の評価も面白い。がここで引きたいのは上のような日本の特有さに当たったときに面白い言葉につきあたったことだ。

 

‘’日本の歴史を読んでいると、なんだか涙を誘われるのは、そのやりきれないほどの孤独と、誰も客席に座っていない劇場で、架空な満員の観客を思い浮かべながら懸命に演技しているような、どこにも存在しない「世界」に向かって絶えず自分を印象づけようとする哀れな姿だが、8月15日に向かって戦争の経過を追っていると、「日本はいったい何のために戦争をしたのだろう?」という当然の疑問が起きてきます。
満州の権益、というが、満州は終始一貫赤字を垂れ流すカネ食い虫で、人種差別との戦いという人もいて、気持ちはわからなくはないが、やっていたことは自分が白色人種でないことを天に向かって呪詛してでもいるようなアジア人の大量処刑・大量虐殺だった。
寂寥、という言葉があるが、荒涼とした気持ちになって、ラフカディオ・ハーンが描いた、やさしさと、まるで日本の大気中にだけは神様が日本人たちのために特別にこさえた、馥郁たるエーテルが満ちている、とでもいうような精霊の吐息が聞こえそうな「美しい国」との印象とまるでちぐはぐなので、混乱した気持ちになります。”

(パンツアーファウスト大日本帝国の孤独 

ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日v(15/8/11))

この孤独と寂寥と馥郁たるエーテルは別のものではないのだと思う。

 

うまくまとまらなかったけど、最後まで読んでいただきありがとうございました。