キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

たしか性的消費だったと、あるいはホモォがあからさまになる未来

性的消費ていうじゃないですか。あってるかどうかおぼろげだけど、「秋葉原みたいな場所では、二次美少女がたくさんディスプレイされている。でも二次美少女って性的な対象なんでしょう。性的なアピールを主とした、セクシュアリティを消費するためのメディアなんでしょう。そんなものがあからさまに公共の場所で公然と所せましとディスプレイされてるのっておかしいんじゃない?日本て頭おかしいの?」みたいなクレームを言うとき、二次美少女の消費の仕方から避けうべくもない性的な部分をもって、パブリックに晒されている二次美少女の一部もしくは大半を公共に相応しくないって非難するときに想定されている二次美少女のイメージの流通の仕方のありようみたいなやつです。それが性的消費って漠然と呼ばれていると。

でこのあとこれは準猥褻物だ。不快だ。ゾーニングしろ、いや、それは不当なラベリングだと、いうやりとりが続くことになります。でその対立は論者の顔ぶれからフェミ対オタクの軋轢の一つとして括られたりする。

とりあえずは、二次美少女が猥褻物に準じるものか、ゾーニングの処置をとるべきものか、はおいておきます。不思議なのは二次の美形のイメージの性別は女性にとどまらないはずなのです。二次の美形男性の需要とてもはや隠然としたものではなく、かなり公然としたものとなっているはずと思います。正直そうでなければ「ホモォ」が本来の特定の固定した文脈を越えて、作品内なりの位置づけを与えられて登場が正当化されるような漫画が出てくるはずがないと思うんですけどね。

まあBL志向なりいわゆる腐の擬人化みたいなホモォの擬人化のアクセスしやすさと、BLそのものみたいなカップリング妄想の具体化みたいな二次イメージがメジャー化することと、そもそも美形男子の二次をいっしょにするなという反論があるでしょうけど、そもそも誰が愛でるかという観点の抜けた二次の美形男子という一般的なくくりなど意味はない、正直、ホモォかカップリング妄想か、どちらかがメジャーになっていけば片方もあからさまになっていっていずれ市民権を得るだろうという気しかしないわけです。

このあたりで性的消費というときに誰が、どんな商品を消費するのか、ということがあいまいなんだろうと気づくわけです。わざと後回しにしましたけど、二次美少女の背後にあるのは単にヘテロとは言えないではないんですよね。割合、異性の性愛の対象でありつつ異性を性愛の対象として求める女子キャラクターってもはや少なくなってきたんじゃないんですかね。いまや美少女アニメには男出すなって言ってますもの。

もはや百合の方が多いわけです。そのこともフェミとオタクの対立に無用なすれ違いを生み出しているみたいですが、でも構造的にはBLだって同じですよね。魅力的な♂がいるからって、作品内世界で異性に求められているとは限らないし、それが人気に本質的かというとそうではないでしょう。

まあ期待しているのは二次美形男子が公然となっていったら、性的消費ってヘテロを前提として二次美少女を弾劾してたのが、どうなるんだろうということですね。

ミサンドリーまがいを疑うような、二次美少女による性的消費を弾劾していた人たちが、同様に二次美形男子を消費する女性たちを発見したとき、どんな評価をくだすのだろうとか。では二次美少女を消費する人たちが、同様の構造で二次美形男子を消費する女性たちを発見したとき、この双方の需給の構造を維持することが、双方の生命線とかみなして連帯できるのとか。

 

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