キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

近頃のリベラル

飲みすぎてしんどくて、ぼんやりと普段よく見るサイトを巡回しながら、つくづく思うのは、リベラルってのはなんでこうも極端な連中ばかり声がでかくなってしまったのだろうか、ということだ。あっ、しまった、主語がでかいってやつだ、これ。

それはともかく反戦運動フェミニズムとか他の人ともめるだとか、マイノリティが気に入らなきゃそれは差別だとか、キモくて金のないおっさんはどうなっても構うか、とか異議申し立てというか、人権を擁護したいって言論もずいぶん劣化したんじゃないかとうんざりする。

普通、マジョリティのなかから味方になる人を広げていくもんなんだと思うんだが、たとえばそれはマイノリティの当事者の問題だけではなく、多数の人が共有している社会の原則、開放性だとか社会的公正に反しているから皆の問題であるんだってふうに、当事者が実はマイノリティだけでないと主語を大きくしていくのが、現代の社会運動だと思っているのだが実は違うのか。

マイノリティが不利益だと思うのはなんてどこかで通ってきた道で、それが対立と不理解を拡げてきた自覚があったから、「のりこえ」っていう言葉が使われるようになったのではなかったか。またフェミニズムが支持されるのは性別による不利益、排除が不公正だという原則を皆が共有するからのはずで、おっさんが自分の性別によって不利益と排除を受けていると言い出したら、それがセクシズムの対象かどうか、検討してみるフェミがほとんどいないというのもどうなのか。でその先に反戦運動とフェミとかの内輪もめを置いてみると、双方ともに運動なり主義の排他性、合いたたずの自己本位さっていうのが際立ってくる。多数をとろうとすると無神経であってもいいとか、それを批判する側だって強引だとか。

じゃあどうしてこうなったか、ということになるのだが、清義明さんがこのたびの安保法案のデモを「敗北主義」と整理していたが、あの論理を応用していうと、仮説だが菅直人政権運営失敗後、撤退の生存戦略として煽った遠心力が(煽らなくてもあった、似たようなことにはなっていただろうが)止まらなくなってしまったのではないか、カウンターの政党が煽動家になったのでもう遠心力しか働かなくなったのではないか、とか考えている。このあたりいずれもう少し考えてみたい。

でどうすればいいかというと、「アイデンティティ・ポリティクス」ってもう封印したらどうか、って考えてみる。大事なことだけど尊重しすぎると、不理解を拡げていって差別の解消、包摂するとか、統合するとか、を遠ざけてしまう気がする。少なくとも尊重はしても重きを置かない。共感することが大事な場ならともかく、5人以上の議論だとアイデンティティ・ポリティクスって大事なのわかるけど、主語をあなたも私も含めた私たちって視点も持ってしゃべってくれない?とかした方がいいんじゃないか。

実際のところ、ネオリベ的な自由化と価値感の自由化が進んでいくので社会から放り出されて不満をもつ人が増えてくる。でその不利益を自分の属性への社会からの排除と発見する人も発生するんじゃないか、実際ある属性の不利益は差別だが、ある属性がそうではない、とか今まで当事者の捉え方が大事とか言ってきたのに納得できる線引きなどありえないだろう。およそ数あまたの属性がありそうだから、万人の万人に対するアイデンティティ・ポリティクスの闘争が始まる。もう始まっているかもしれない。人を分け隔てできるような線引きは無数にあるのだ。あるカテゴリさえ一枚岩ではない。各サブカテゴリで角付きあうこともある。おそらくこれらの線引きがひとしなみにアイデンティティ・ポリティクスを持つのだ。ならばこそ優先順位をアイデンティティに置くのは棚上げにしたらと思うのだが、もはやキモいおっさんである自分からすれば、自らこの提案をすぐに反故にしてしまいそうな不安を払拭することができない。