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キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

再開する為のpretext(建設中)

まあ、響鬼の話を終わらせたいとdiaryの方にたまに書いていて、そのうちにdiaryがメインのメディアみたいになってしまったわけです。ジュブナイルもしくは児童文学の映像化に際してのリアリズムについて書く、書こうと、それが響鬼の終わりの話だと頭では決まっていたんですが、なかなか書きあぐねていたんですが、もう寝かしとくわけにもいかんなという焦りみたいなものが来たんで、とりあえず書こうと思いたって、ここで告知だけせんと書き殴ってるんです。

ただこれからのこのブログについてお断りしておきたいことがあります。多分、一つの記事・エントリーについて完結したものを、完結したから上げるという慣行は踏襲しないと思います。diaryの方で書きかけをあげて、放置して、何か来たら書き足す、完結することもある、みたいな文章の付き合いをしてきて、助けになったのは、放っとくと切れてしまうことになるログインしてなくても、urlへのアクセスだけで最新の履歴を、自分の思考の履歴の最終を確認できることでした。書く、それを考えて読む、そして、その続きを招きよせるためには、アカウントの中だけからは窮屈なのです。まあ普通は避けるんでしょうが。

そんなわけでこの先ここには書きかけの文章があがることもあります。終わったら何らか慣用句でもってその旨告知するかみたいな、加筆をするかと思います。

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感7

(書きかけていたものです。より俯瞰の視点の完結の着想が来ましたが、書き始めの着想をよく捉えているので、締めの手を加えて公開します。)

だいぶ間が空いてしまった。少し復習を。

まず一つ、響鬼は超人のヒーローとその周囲の通常の人のドラマの主副の関係を逆転させてみようという実験的な試みだったと思われる。よって実質上の主役は明日夢君である。

この構想はおそらく十分な準備期間をもって実現されたものではなかった。明日夢君役の俳優の演技を観て即興のように具体化したのではないか。ゆえに一年間のドラマに耐えうるような課題を見出せず破綻した。

響鬼から引き継いだ父性の課題から模索するなどおよそ、2クールの試行錯誤を経て見出した日常側の主人公の課題は日常側なりの立場で悪意と対峙することだったと思われる。唐突な28・29話はその結論のイメージをおおまかに示唆しているのだろう。

というわけで、もうそろそろこのシリーズを終わりにしたいのだが、やはりカノンちゃんが何に苦しんでいたのかに触れないとこのシリーズは終わるわけにはいかない。そもそもカブトの件で調べていて、そのことで気付いた、思いついたことを書きたくなったから、これを書き始めたのである。

まず前提として了解してほしいのが、ある人が心的に長く傷つき、苦しんでいるとき、その人が傷ついた原因、引き金となった事実がその人を苦しめているという理解は、おそらく正確な表現ではないのではないかということである。問題は傷ついたという感情なり、自己愛の毀損したという認識をつねに生々しいものにし続けている力が何に由来するかということではないだろうか。人はなぜ苦しみの中にとじこめられて、そこから出られなくなるのかが問題なのである。

この点を押さえてみれば、カノンちゃんが彼氏に裏切られた、大事なものを奪われたという原因は実はさほど重大ではない。だから原因とその結果というセットとして釣り合うもの以上に、結果の苦悩は過剰に生活そのもののように描写されている。響鬼でも原因の万引き少年の加害の描写はあっさりである。交替によって尺がなかったのが確かなのだが、和解とかドラマのプレイヤーとして重要な役回りはなかったような気がする。苦悩を因果とか関係性とか外的なものとして、捉えるより、内的な感情や情動の執着や拘りの感情の問題と捉えるなら、具体的な他者、原因は本質的なことでないからである。

前提として上のことを了解してもらったら、カノンちゃんの苦しみは端的にこう捉え直せるかと思う。被害を受けた事実、それによって傷ついた感情と認識を人格に統合すること、自己を責め続け、自害し続ける傷ついた感情を自我に統合すること、傷ついた感情への固着から解放されること、おそらくこれが、カノンちゃんに課せられた課題であり、戦いなのだ。なぜこんなまわりくどいことが課題になるかというと、作り手はここで、自分を変えたりする外の力はあてにできないと考えていて、懲悪として人に優位に立つための他者を求めはしない。他者の介在や排除によって問題を解決するつもりはないからだ。たとえば、癒しといえば治癒しにかかる他者が求められ扇情的になるし、許しというなら、許されるものへの優位を誇示し、居丈高になるし、そのような他力の要素、客寄せのカタルシスな要素を排除していけば、こういう筋道を辿らざるをえないのだ。そんなわけで、自室で一人泣き、バイト先で(確か皿を割り)咽び泣く彼女を誰も救ってはくれないし、かといって許すといった特別な寛容さを目指すこともないのである。というわけで日常の側の主人公のドラマは、非日常側からの働きによる変容の契機を得ることなく、ほとんど主人公自身の行動の脈絡のみを引き継いで進行することになり、かつそれにオンバケのイパダダ追跡が並行するドラマの組み立てとなる。

そこで並行するドラマは響鬼以来よく言われるように無関係で劇的な要素が連携することなく語られる。非日常の能力は主人公の苦悩を救ってはくれないからだ。また先に触れてきたクウガのように相互に影響しあうことはないように見える。

このあたりがくせもので、響鬼以降の高寺作品が読みにくい理由だと思うのだが、並列するエピソードの連携の仕方が変わってきているのだ。クウガの頃ならサブエピソードはどこかで雄介と絡むし、ヒーローの課題や作品全体の主題の明確化に奉仕していた。どうも響鬼あたりからメインとサブを並列して提示してどう受け取るかを受け手に委ねていったように思う。響鬼前半のように日常を何となくクサラなく生きていこうという葛藤が少ない作劇なら観ていても混乱しないのだが、イベントが激しくなってくると、受け手ははっきりとしたメッセージを与えてもらわないとフラストレーションが溜まってしまいがちになる。主副のドラマの対比はろくに何かのメッセージを明確にしてこないののだ。実際、書きあぐねたのはこのエピソードの対比、対照の話法の効果をどう位置づけたらいいのかということなので、それで間を空けてしまったのだが、諦めた、観ずに記憶と書誌だけで書いているんだもの。ただこれだけは言いたいのは、この求心力を失った偏心気味の話法が、響鬼以降の高寺P作品の奇妙な魅力であることだ。エンタメの思想史というか、モチーフ史的な切り口から言えば、リアル特撮がディザスタームービーの形式で具現化して、有事の顛末を追うことがエピソードの求心力を効かせてくるのはいいのだが、従来からの同工異曲の変身ヒーローものでは、暴力で怪人を排除する主人公の内面がリアリズムではエンタメとして持たない、観辛くなってしまったことへの反省なのだと思う。だから内面側の劇とヒーローの行動側の劇の2部構成になり、かつ行動の側は対象を排除するカタルシスみたいなものは減じられた設定になる。結果、思春期の日常の劇と、社会で揉まれた働くおっさんが交差する日常ドラマになる。クウガや以前の平成ガメラのディザスタームービーとして有事の首尾を追うリアリズムの達成はあったわけだが、響鬼では基本、非日常は日常、平時の中に収まっているスタンスなわけで(やはりそこでディザスタームービーのような段取り、求心力を求める客はいたわけだが)、偏心して対比していく話法が日常、平時の空気感を醸し出していて、それが響鬼以降の魅力であるとは言えると思う。結果、「中学生日記」だったわけだ。1クールや2クールならありだと思う。しかし4クールではとは既に書いた。

しかし中学生日記である。カノンは実は響鬼の後半戦ではないか、と書いた(と思う)。実は中学生日記だってシビアな話は多い。「誰にも言えない」とか地底人とか、唯野さんの脚本とか。あのまま響鬼が続いたとすると、そのノリで、不登校になってフリースクールに通いだした明日夢君がクラスメイトの毒親に翻弄されるとか、カウンセラーも出てきて学校に再び通いだし始めて(休学後ホームステイとかもあり)エンドみたいな話になったのでは思う。クウガのシンマ研究者の身につまされるエピソードみたいなのが本筋で延々続くような。ただどんなものかは当時楽しみにしていただけだったが、試練の予感だけはある前半だったのであのまま続きを見たかった思いは否めない。当時テレ朝では「雨と夢のあとに」や「てるてるあした」みたいな野心的なドラマを放送していただけに、どうして響鬼は完走させてくれないのだと思っていたのを思い出すのである。

最後まで読んでいただきありがとうございました。 

 

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感6

バイトしばらくするのであまり密に更新できません。カノンも2回くらいに分けます。

 
 
さてカノンちゃんである。あと押さえたいのはカノンちゃんの痛みの分類付けへの試みと、それを受けて響鬼の後半を少し妄想してみること、この2点である。もう少し頑張ろう。
 
カノンちゃん、括弧を使わないと作品名と人物名がごっちゃになるので馴れ馴れしいながらも、ちゃん付けなのだが、正直そうでもして洒落のめしてみないと、あまりに彼女は重苦しいので書けないところもあり、少し我慢して読んでいただきたい。
1話や2話の頃のカノンちゃんの痛みの抱え方の描写で昔から私が気になっていたのが、相手を責める、攻撃するというか、外の何かへ怒りをぶつけるような感情の発散への通路がまるっきり欠けていることであった。もちろん利用した元彼氏やその彼女への接近を避ける体の描写があって、複雑な感情があることが暗示され、恨めしい気持ちがあるのを否定するわけではないが、それは人の交流から彼女を遠ざけ余計苦しめることになっているのである。
どうもカノンちゃんの痛みは怒りに変質して外に向かったり、なんらかの意思表示として外へのアピールを得ないのである。
では高寺Pの作品では以前から、怪人はともかく、人の間で悪意に傷付けられたり、不和に悩んだりした時、このような反応はスタンダードだったのだろうか。実はそうでもなさそうなのである。というわけでクウガを振り返ってみようと思う。
クウガという作品では、割と人同士の悪意や不和はシビアなものが当たり前のように出てくる。35話、36話の保育園の幼児の喧嘩や、確か朝日奈さんが遭遇するオーディションでの悪意ある言葉だの、彼らは普通に不服を口にするし、意思の表示を避けるわけではない。これらのエピソードにクウガという作品がどう対処するかというと、そこには常に「話せばわかりあえる」というテーゼが提起されることになる。これが実はクッションというか、わりとwikiなどを見てると、クウガの日常側の不和が身につまされる感があるのに、あまりフィルムが視難いものにならないのは、このラインを踏み外していないようにしているからの気がする。35、36話の保育園の喧嘩とその和解も感想を当たっていくと印象的なようだし、朝日奈さんが出会う悪意も、コミュニュケーションのあるオチがあるようである。加えてこのテーゼが大事なのはこれが主人公の雄介が周囲と接する、訴えかけていくときの基本的なスタンスであることだ。そう視ていくと、同時にこれらの日常の描写は要するにそう信じたい、そう主張する雄介を浮き出す背景の側面が強いともいえる。このあたりのことはクウガから響鬼への対比するドラマの逆転という形でふれてきた。
ただおさえておかななればならないことがある。クウガは「話せばわかる」という単純なドラマだったのか、もちろんそうではない。日常から視点を転じてみれば、話の通じない悪意と暴力に対して、それを暴力で排除するというドラマだったのだ。実はクウガという作品は話せばわかると主張する雄介自身が和解のない悪意に苛まれ続ける過程でもあったわけである。話せばわかるという信念を裏切られ続ける道行きなのだ。悪意を排除できる力を手に入れていることがそのことに対して救いになることではない。
ここまでくると明日夢やカノンちゃんがなぜ、理不尽な悪意に苛まれ、心を閉ざさなければならないのか、その必然性がわかるような気がするのである。地と面が反転し表舞台に立った日常側の主人公は、従来の非日常の主人公と同様の試練を与えられなければならない。和解の望みのない理不尽な悪意に晒されて、孤立無縁の道を歩み始めなければならないのである。
では和解もないし暴力で排除すると言う選択肢もない彼らにとって、何が勝利なのだろうか?、その道行きの果てに何を得るのだろうか?
おそらくカノンの冒頭のナレーションはそれが何なのかを暗に告げているのだろう。確か、最終回付近でナレーションはカノンちゃんが人を信じることを選んだことを語っている。これがカノンちゃんが試練の道行きを乗り越えて得た成果なのだ。クウガの文脈で引き寄せて言えば、信念を裏切る現実に抗ってもう一度、「話せばわかる」という確信を取りかえしたのだ。
多分カノンはそんな物語だったのではないかと思うし、響鬼の後半で描きたかったこともそういうことではなかったのかとぼんやり考えるのである。
 
次はカノンちゃんは何と戦っていたのか、そんなことを探りながら、カノンについて思ったことの落ち穂拾いをできればと思う。
 
バイトにも少しなれ始めたのでもう少し詰めて更新できればと思います。
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。
 

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感5

響鬼の隘路と大魔神カノン>響鬼のifとしての大魔神カノン

とりあえず、カノンが響鬼がもともと持っていた構想を展開したものではないか、という仮説を検証もしくは妥当性を探してみようと思う。ここでは前半の響鬼を総括し後半の展開を暗示したような28、29話とカノンの1、2話の雰囲気を比較してみたい。

まず28、29話では土蜘蛛といって通常のCGの魔化魍ではなく、等身大、人型の怪人と鬼が戦うアクションシーンが展開していって、今まで自然現象に多くを説明していった魔化魍に、悪意がある何かであることが明確にされ、鬼と魔化魍の戦いに今まででは希薄だった悪意に対峙する緊迫感のあるアクションとなっている。対してカノンではオンバケと呼ばれる人間を助ける妖怪が、イパダダと呼ばれる人間の怨霊らしき妖異と戦っていて、怨霊ならではの激しい敵意と対峙している緊迫感がオンバケとイパダダの対決シーンから漂っていて、よく似ている。おまけに音楽は確か同じである。

一方、日常の人間はというと響鬼では明日夢君は万引き犯に報復?されたなどの悪意と暴力に遭遇し引き籠っている。一方カノンのカノンちゃんは彼氏に裏切られて引き籠っている。似たような行動から始まっている。このあと響鬼では響鬼さんが明日夢君を山に誘うが、その山での工程では、響鬼明日夢のやりとりに終始し、同時に進行している鬼の土蜘蛛追跡行には終盤以外ほとんど絡まない。山登りとキャンプと土蜘蛛追跡は平行して進行するのである。カノンにおいては世間の接触を最小にしているカノンちゃんの日常が淡々と進行していき、同時にオンバケの緊迫したイパダダ追跡が並列して示される。カノンちゃんはオンバケの筋に絡んでくるわけではない。ラーメン屋で出くわしたり、あるオンバケがカノンちゃんと昔出会ったことがあることに気付くくらいである。

カブトで調べ始めて思い立ち、響鬼の28、29話を観てみたのだが、上のようにドラマの構成要素と組み立ての仕方がほとんどカノンの初っ端と一緒なのである。ただカノンはシリーズとして制作されたものであれば、28、29話が短い話数なれど課題とその乗り越えを描いているのを考えると、カノンちゃんの物語を響鬼の後半で描きたかった物語の展開と考えたくなるし、響鬼の前半が小さな課題は提起しながらも、シリーズ全体を統べるような大きな課題を提案することには失敗したのではないかという視点からすれば、カノンを響鬼という作品全体でも描きたかったものの展開として考えたいのである。

そのテーマ上の必然性とドラマ作りの方法については既に述べてきた。テーマを構成する作中の課題の点についても、響鬼後半では「現実はつらい」が提示されたのではと邪推してきた。ではカノンではどんな課題が提起されたのだろうか。

カノンの場合、語りは最初からあからさまにしている。アヴァンタイトルの1話のナレーションから「都会で生き方を見失った一人の女性が」云々、ようするにもう一度生き方を再発見することになるのである。

話が少しそれるがこのアヴァンタイトルがなかなかクセモノで、おそらくこれは先行作品へのオマージュへの要素を含んでいて、その点では副次的な外面的な要素なのだが、ある意味ではこのアヴァンがあるおかげで、日常側のドラマが成立しているとまで言ってもいいくらいのトリックがあるのではないかと思っている。

何のオマージュかというと大映の少女ドラマシリーズへのオマージュである。大映ブランドのアイコンをTVシリーズで制作するにあたり、大映TVドラマのスタイルにオマージュを捧げたと想像している。実際本編も大魔神のというより大映TVドラマ少女もののリアル風リメイク+東映コス活劇といったテイストである。しかしこのアヴァンはそのような二次的な要素にとどまらないところがある。ここでアヴァンで注意したいのが、「このドラマは21世紀の寓話である。」と事前にドラマ全体を要約、予告している点である。つまりこの語り手はこのドラマには寓意があること、真意としての作り手の願望めいたテーマめいたものを仄めかしていること、このドラマが架空のものであることを示唆してるのである。

もちろんこのことは送り手、受け手であれドラマが消費される際には自明のものである。しかし、高寺Pがドラマ作りで特撮の約束事らしい嘘らしさの記号を極力排していったことを考えると、寓意を、つまり物語の作為性をあからさまにして語りを始めるというのは特異なことである。これがオマージュに留まらないと考えたい所以で、この作為性の宣告があるので、現実をより広く深く描写していく際限のなさから、物語が成り立つだけの緩衝地帯としての閉域を保護できた、これは響鬼との大きな違いではないかと考えたい。「現実はつらい」と言うとき、とりわけその困難さに近づいていくには難しさが伴う。ある悲惨な出来事があれば、それを上回る他の悲惨な出来事があるはずだし、結局より悲惨探し競争の勝者でなければ、フィクションでの課題とその乗り越えという物語は浅薄、空疎だということになりかねない、アヴァンで作為性を宣告したことで、そんな外的な悲惨さ競争に予防を張り、ある個人のより内面的な、主観的な行き辛さをドラマの焦点に据えることができたと思うのである。実際、ある種の人から見れば、カノンちゃんはささいなことで苦しんでいるようにも見えるだろう。しかし悲惨さの量が問題ではないのである。

ではカノンのカノンちゃんはどんな苦しみを抱えていたんだろうか。それこそ物語が与えている課題である。そのことを最後(多分)に考えてみたい。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。