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キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感6

バイトしばらくするのであまり密に更新できません。カノンも2回くらいに分けます。

 
 
さてカノンちゃんである。あと押さえたいのはカノンちゃんの痛みの分類付けへの試みと、それを受けて響鬼の後半を少し妄想してみること、この2点である。もう少し頑張ろう。
 
カノンちゃん、括弧を使わないと作品名と人物名がごっちゃになるので馴れ馴れしいながらも、ちゃん付けなのだが、正直そうでもして洒落のめしてみないと、あまりに彼女は重苦しいので書けないところもあり、少し我慢して読んでいただきたい。
1話や2話の頃のカノンちゃんの痛みの抱え方の描写で昔から私が気になっていたのが、相手を責める、攻撃するというか、外の何かへ怒りをぶつけるような感情の発散への通路がまるっきり欠けていることであった。もちろん利用した元彼氏やその彼女への接近を避ける体の描写があって、複雑な感情があることが暗示され、恨めしい気持ちがあるのを否定するわけではないが、それは人の交流から彼女を遠ざけ余計苦しめることになっているのである。
どうもカノンちゃんの痛みは怒りに変質して外に向かったり、なんらかの意思表示として外へのアピールを得ないのである。
では高寺Pの作品では以前から、怪人はともかく、人の間で悪意に傷付けられたり、不和に悩んだりした時、このような反応はスタンダードだったのだろうか。実はそうでもなさそうなのである。というわけでクウガを振り返ってみようと思う。
クウガという作品では、割と人同士の悪意や不和はシビアなものが当たり前のように出てくる。35話、36話の保育園の幼児の喧嘩や、確か朝日奈さんが遭遇するオーディションでの悪意ある言葉だの、彼らは普通に不服を口にするし、意思の表示を避けるわけではない。これらのエピソードにクウガという作品がどう対処するかというと、そこには常に「話せばわかりあえる」というテーゼが提起されることになる。これが実はクッションというか、わりとwikiなどを見てると、クウガの日常側の不和が身につまされる感があるのに、あまりフィルムが視難いものにならないのは、このラインを踏み外していないようにしているからの気がする。35、36話の保育園の喧嘩とその和解も感想を当たっていくと印象的なようだし、朝日奈さんが出会う悪意も、コミュニュケーションのあるオチがあるようである。加えてこのテーゼが大事なのはこれが主人公の雄介が周囲と接する、訴えかけていくときの基本的なスタンスであることだ。そう視ていくと、同時にこれらの日常の描写は要するにそう信じたい、そう主張する雄介を浮き出す背景の側面が強いともいえる。このあたりのことはクウガから響鬼への対比するドラマの逆転という形でふれてきた。
ただおさえておかななればならないことがある。クウガは「話せばわかる」という単純なドラマだったのか、もちろんそうではない。日常から視点を転じてみれば、話の通じない悪意と暴力に対して、それを暴力で排除するというドラマだったのだ。実はクウガという作品は話せばわかると主張する雄介自身が和解のない悪意に苛まれ続ける過程でもあったわけである。話せばわかるという信念を裏切られ続ける道行きなのだ。悪意を排除できる力を手に入れていることがそのことに対して救いになることではない。
ここまでくると明日夢やカノンちゃんがなぜ、理不尽な悪意に苛まれ、心を閉ざさなければならないのか、その必然性がわかるような気がするのである。地と面が反転し表舞台に立った日常側の主人公は、従来の非日常の主人公と同様の試練を与えられなければならない。和解の望みのない理不尽な悪意に晒されて、孤立無縁の道を歩み始めなければならないのである。
では和解もないし暴力で排除すると言う選択肢もない彼らにとって、何が勝利なのだろうか?、その道行きの果てに何を得るのだろうか?
おそらくカノンの冒頭のナレーションはそれが何なのかを暗に告げているのだろう。確か、最終回付近でナレーションはカノンちゃんが人を信じることを選んだことを語っている。これがカノンちゃんが試練の道行きを乗り越えて得た成果なのだ。クウガの文脈で引き寄せて言えば、信念を裏切る現実に抗ってもう一度、「話せばわかる」という確信を取りかえしたのだ。
多分カノンはそんな物語だったのではないかと思うし、響鬼の後半で描きたかったこともそういうことではなかったのかとぼんやり考えるのである。
 
次はカノンちゃんは何と戦っていたのか、そんなことを探りながら、カノンについて思ったことの落ち穂拾いをできればと思う。
 
バイトにも少しなれ始めたのでもう少し詰めて更新できればと思います。
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。