キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

椎名林檎の「愛国ポルノ」と文化批評

韓国方面が熱くなっていているのを観測しているのだが、あまり面白そうな文脈の混乱が起こりそうでもなく、整理できてないことを混乱しながら書き連ねる気にもなれないし、椎名林檎のLiveで旭日旗まがいがたいそうにはためいていたと騒がれていたときに抱いていた雑感を掘り出しながら書いてみることにする。

旭日旗振りかざしていればネトウヨかい、みたいにツッコミたくなるところがあって、そもそも販促ものの旭日旗はまがいの旭日旗だったし、椎名林檎そもそもがどこかベタよりもネタというかfakeを真剣にやるといういかがわしさがその表現に魅力があったんじゃないか。もちろん愛国はそのパロディをやってるから反日だなんて擁護したいわけではない。割と、この前のWC杯のときあたりのインタビューみると、オリンピックを控えてホストの国の日本がどれだけ人を驚嘆させうる表現を持ち得るかに関して責任を感じておられたので、まあ確かに国士様なのだが、それにしたって「ここでキスして」であっても現代のシド・ビシャスに自分たちをなぞらえる詩の痛々しさ、いかがわしさに対して、無自覚・天然であるわけでなく、演奏としてパフォームしきることにおいて痛々しいfakeを一瞬信じてみたいと思える瞬間があるから、当事の椎名が凄かったと今では思えるのだから、愛国的な熱狂というモチーフがあるにしても、それが響宴に供されるものならそれはうたかたなものではあっても、崇高なもの(美しい日本)ではあったりしないだろう、聴いてみたいくらいの擁護は思いつかないのだろうか。と旭日旗みたいなものを見ると、保守化ではと絶句するような紋切型を演じてしまう(新)知識人の振る舞いにいささか残念な気持ちになったのである。

ただこれは難しいところでと話題になったときに考えていて、いささか椎名自身が日本の音楽を代表してみたいかのような下心がないわけでもなさそうなのが気になるところであり、この先の表現の変化を注視したくはある。まあこの記事書こうと思ってYoutube少し見たけど、愛国ポルノを魅力のそのいかがわしさも含めて提供してる感があり面白いと思う。てかステージのデザインの仕様見てると、どっちかというとモダンで、大瀧栄一のアルバムのジャケットイラストを日本人、和素材にしましたみたいな感じで日本のロックの戦後感をよく体現しているような気がするのだがどうだろうか。

でふと思い出したのが、90年代冷戦の終わったヨーロッパはドイツのアートについてで浅田彰ナショナリズムの回帰にふれて「ジーバーベルグ(映画監督)がドイツへの回帰を担当することによって、ビナ・バウシュがモダンに思い切りやれる。」みたいなことを言っていて、イデオロギー対立終了後のナショナリズム回帰状況でのアートの役割分担のような芸術家の対照を語っていたのだが、まあいまは椎名林檎モダンだよなと思う、思い切りかはともかく。日本回帰してるの誰だよ。

現在の日本に参照して考えてみたいが、東アジアはイデオロギーの対立がナショナリズムのそれに横滑りしてるような状況だろう。アートとかどうなんだろう。ただ批評っていうのは文化左翼ならではの香具師くささがあってほしいものだが、私の観測視野がせまくなったのか、党派を度外視したようなものは見かけなくなってしまった。