キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

締念と孤独とユーモアと

色々と書きたいことはあるにしても、準備不足だとか、気が向かないということであれ、すぐには書けないというのも、事実で、実のところ気になっていて、いまなんとなく言葉にしたいと思っているのが、このwebで無数に個々の閃きが込められた記事が生み出されている事実とそれを生み出している情熱みたいなものの集積を、何かしらの水準であれ、受け止めるとしたら、どういうものなのか、どんな格子ならそれが最適なのかも含めてってことで、形にならない霞を受け止めあぐねているといった所なのでした。

tumblerっていうんでしょうか、気に入った記事がストックできるようなサービスがあって、利用者の方がそれをブログの形で公開されているようなんですが、色々と面白い記事を発見できるんです。で関心の高い記事は色んな人のtumblerにあがってきたりする。また気になる断片を見つけたら元記事のブログに行くとそのブログ主は他にも面白い記事を書いていたりすることが発見できる。

でこれは何となくなんですが、共有できる関心をもっていたりする人がいて、確実に同じ記事を拡散し合っていたりする。でいくつかの記事がはてなのブックマークのエントリーにあがってきたりする。

ふと思うのは閃きや発見を与えてくれる記事をgoodしたりできるのはある種の教養をもつ知性への志向で、それは知的な訓練として有意義なんだけど、たいていそれは読者は有効な当事者ではないので逆に今すぐには役に立たない。自分にとって役に立つか立たないかわからない発見を、知性を誇示するかのようにシェアしあうことは何処か、倒錯的に知性への締念を表明しているかのようである。まあ拡散される記事には何度かに一度は日本への締念みたいなものがあるが。

またオフラインで別に何かやっているのでなければ、reblogされる?みたいな各アカウントで拡散しているといったことは 、それぞれが各自でやっているのだから、とくに恊働したというわけでもない。あえて言い過ぎればそれぞれは孤独な営為なのである。

一つ書いていて思いついたのはこれ、無数の記事が生まれ受け手の消費の作法まで含めた生態系みたいなもの、は新手の教養主義なんじゃないかと思ってもみる。岩波書店といった権威がある発信者が各送り手へといった感じに権威>周辺からフラット化し、岩波文庫といったパッケージが各種のSNSやらのウェブサービスに変わって、受け手に各言説を可視化させている程度で、色々と拡散する手段が追加され、SNSで届けられたりする言説を消費する熱意はやはり教養主義的なものではないかという疑いをもってしまうのだ。まあ、私の頭の中だけが教養主義的なのかもしれないが。

そういう知性へ重み付けられがちな空間のなかで、その重みから無縁なハプニング系のgifのようなユーモアを日常的に消費することができるのが現在の我々の進歩かもしれない。