キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

水稲栽培のコストを少しだけ、考えた

30日、とりあえず区画AからCの稲刈りの第1次の作業が終わった。うるち米はコンバインで収穫脱穀し、圃場での作業は終わり、圃場はもち米の乾燥脱穀を残すのみとなる。

今年は深いところが多かった。盆過ぎから降り続いた雨のせいか保水のできる気密性?の高い圃場は軒並み湿ったところが多かった。
圃場に立ち作業していると枯れた藁の匂いと、土の発酵したのか、腐敗したのか、子供の便のような匂いを鼻は嗅ぎとり、巻きあがった砂と枯れ草の粒子が肌にまとわりついてくる。そんな空間で単純な反復作業を重ねていると、体力気力的に余裕があるときは、ふと色々な思いつきが湧きあがって、その展開に身を委ねることもある。その一部はここでも書いてきた。
そのなかで、この時期なり、栽培の工程の全体でもいいのだが、折にふれたどりつくのが、よくこんな集約的というか、人入り物入りな工程を千数百年ほどやっているなあという感慨である。同じ炭水化物のカロリーを得るのに、もっと楽な栽培植物もあったろうに、なんでこうコストのかかる自然の改変をして、人手もかかるような品種にこだわったのかと嘆息するのである。まあとはいえ陸稲やら雑穀にはもう戻れないけど。
水を均一な深さで湛える田圃は土木的な複雑さは畑に比べるとえらく高い。このコストは高くつく。また日本は雨が豊かというのはあるが水路やため池のような灌漑施設は畑のような圃場よりは高くつくだろう。また直接播種でなくって苗を移植することで苗床から移植の人手がかかる。収穫はどんな作物でも手がかかるとしても、工程の各要所で物入り、人手前提な作物はどうか、とご先祖さんどうしたのだろうと思うわけだ。降水量と日照があれば山でも棚田にしてしまうのには偏執的なものも感じてしまう。
実際は、歴史をみると水稲ができる条件を揃えるのも難しいので、日本でもそれ以外の穀物も作られているところは多い。しかし日本で代表的な穀物といえば米を指すだろう。
最近の研究などをまた聞きだが聞いてみると、米でも陸稲とか別の品種と比べて水稲に特化した我らがジャポニカ米の優位さというと一つは食味だそうである。つまりカロリーというよりは商品性に選択の要因があることになるのではないか、と思うのである。つまり実は米は商品作物の性格が高いのではないか。まあ江戸時代、通貨みたいなものだし。
そうしてみれば、今回作業していると、籾を収めた袋が圃場で破れて念入りに拾ったのだが、それが収穫の無駄を惜しむといった面と別に、微細な金を念入りに拾い集めるかのような執拗さを感じるのに思い当たり、物悲しくなってしまったのであった。
 
上も含めて所用が立て込んでいたので間が空きました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。