キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

先日の「王様は裸だ案件」の補足 その2

記憶に新しい内にこの記事は書いておいてしまわないといけないのである。とりあえず英語圏からご教授してやるといった善意は、相手の環境での妥当性がないと、的外れになることも多いにありうるので、気をつけた方がいいという話をしてきた。今度はそれを逆さまから見た話である。

環境の相違で妥当な話が違うのはまあよしとして、グローバルな制覇を背景に英語環境での知的、価値観のヒエラルキー(ローカルではなくって普遍を志向する)がどこまでも有効であるのかを疑うのは、理解できる。次の問題は普遍を自称する側に対峙する側が、この場合というかよく欧米流のリベラルと日本のネチズンが鍔ぜりあってる場合などだが、とくに特殊の立場に自らを囲い込んで特殊の権利をもって、自分の妥当性を主張する(中国ので人権みたいに)のではなく、なぜいつも普遍と同様に自らの言説がどこまでも妥当性があるかのように確信しながら、主張を続けることができるのかである。

たとえば従軍慰安婦が人身売買か職業的な売春かというイシューがあったとする。あまりどちらかに肩入れする気はないが、人身売買、性奴隷と非難する側は、あまりよく覚えていないが、すでに慰安婦が従事していたその時代にすでに、国際社会で、借金で身売りするような契約は既に問題になっていて、国際機関からそれはやめましょうといった条約がでているよ、日本も批准しているよ、だからそんな契約でたくさんの人が働いていた慰安婦のことは人身売買、性奴隷といっていいよね(だったと思う)、と云い、他方はその問題になっている契約慣行の手続きをもって売春、職業だと主張しているのである。

このような場合、中国の人権と民主主義のようにローカルの立場から国際基準の適用を拒否し、前近代の風が残った悲劇だと免罪する戦略もある。これに近い立場の人もいる。が声の大きい人には普通に上のローカルで前近代の慣行でもって労働だ、職業だと主張している人もいるのである。対峙している側に自分の顔がバカの顔に見えているかもしれないことに気付かないのだろうか。

実際のところ、上の場合、ローカルに逃げ込んで免罪するとか、国際社会でもそれほど守られてない、空文だ、とか主張できないと、職業だという声に説得する力を持たせるのは難しい。が上のような一部の声の大きい人たちは、ろくな証拠の吟味もなしに、自分の声がどこまでも届くかのように確信して、主張を語ることができるのである。

実はここでの次の問題はこのナイーブな確信はどこからやってくるのだろうという疑問なのである。これは普く受け入れられるはずだといった自己愛の源泉って何なんだろうという話なのである。じつのところ海外の人から見たらこの心性は、不可解なものであろう。コヤマ氏がいらついているのは、一つはこれに対してであることは間違いないと思う。ではコヤマ氏が自らの広い妥当性を知的なヒエラルキーを担保に信じうるのに対して、我が国で我が声がどこまでも届くかのように信じる人たちは何を担保にしてそう信じうるのであろうか?

 

このあたりの所感が前の記事には形にできなかったのですが、海外から見た日本を検討したいという欲求につながります。少し掘り下げれば形にならないと思いますので、何日か経ってから続きを書ければと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。