キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

先日の「王様は裸だ案件」の補足

気持ちが何か谷の状態というか、以前あった興味や気力が衰退していく時期、躁と鬱の波間の谷かなという時期に気になる記事を見つけ、抱えたモヤモヤをつい記事として先日吐き出してしまったわけですが、自分で読んでみてまとまってねえなという感がいなめません。
まあ、専門の問題でいそがしい活動家の方に、答えをクレクレする気はないのですが、近頃、アムネスティ性労働の合法化を提言をしたってことが話題で、今まで女性運動は性労働を違法で搾取扱いすることがデフォだったのだから、どういう変化が内部に起こったのか、知りたい人もいるはずなのに、起こりそうな誤解をバカにするだけで、じゃあ何がバカなのか、説明を求めてみたら、おまえはバカだ、議論の舞台を共有できないと斥けるのみの寸劇を観てると暗澹とせざるをえなかったわけですよ。
違法で暴力だとしていたものを合法の枠に収めていくって話が、始まるのなら、起こりそうな誤解には解答は提示しておくことも必要なはずだし、そもそも運動が以前言っていたこととの整合性はどうなるんだって説明を求められても仕方ない立場のはず。答えるには適任でないのならわかるが、上から目線で舞台に上がってこいって指図するのには違和感が否めない。
そんなわけで日本語の活動は本気でないのだろう、と思ったのである。微妙な問題に明快な図式を提示できるのは議論で聞き手が答え手の専門性や知識へのリスペクトがあってこそで、それは英語の社会ならではなのだろう。ただそれは専門性といった階層や知識の序列への信頼を前提としている。もちろんそこにはそうでない日本語環境への軽い侮りも感じる。が、そこで彼女が、自分がたくさん詳しいことがあって、誰かが事実を間違ったことを言ってると指摘したくなる、というとき、なんだか軽い危惧感も感じるのである。
そこで、ネトウヨが着物コスプレイベントへの抗議は反日だと騒いでいたときのことを、思い出してみる。「文化的盗用」という概念を教授してはみたが、わからないバカが騒いでいるのはどうでもいいとして、わかってみてもジャパネスクPVを批判している頭のおかしな人たちってラベリングし直されるだけの話である。そうであれば、アイデンティティをめぐるポリティカル・コレクトネスの作法について教授することになるのだが、彼我の問題にわかってない人が見当違いの抗議をしてあちらの当事者の手をわずらわせることは論外としても、ここまでくると、そのようなPCの作法を日本が必要としているのが自明でなければ、その教授の有り難みはかえってありがた迷惑であろう。そのような滑稽なこと(サンフランシスコ慰安婦碑をめぐる目良氏よりはマシだろうが)をしてる自覚は彼女にあるのだろうかと思ってしまうのである。
ましてこれには、表現の自由というお題目も付いてくる。不快に思う人がいれば、ある表現は検閲してもいいのかという危惧は、歴史もあって我が国では神経過敏なトピックの一つであり、そのことから抗議することもアイデンティティ・ポリティクスの一つであろう。私たちの資産でもある表象が関係する問題であれば、我が国なりのトピックから、いくつかの言明をする権利もあるのではないか。その言明だって先の抗議と同様に文脈を忖度してもらう権利はあるのである。原理的には。
じゃあ、何でこのようなおかしみが、それを「裸の王様案件」と名付けてみたのだが、生まれるのだろうと考えると、議論でのリスペクトを構成する階層や序列、その内容、価値観があちらとこちらで違うのだろう、と推測してみるのである。そもそも詳しく知ってることで、事実を間違ったこと言ってると指摘したくなる衝動というのには押し付けがましさは否めない。そこに自分の価値観とその帰結の序列を信じている幾ばくかの無邪気さを見出さざるをえないのである。これが事実への修正にとどまらない価値観を含む案件なら揉めざるを得ないだろう。たいていのことは間違いとその修正といった構図に収まってくれず、別のリスペクトや価値観に容喙してしまい、それに序列を与える優先順位は万能ではないのである。「事実」は思うほど有能ではないし、たとえば「人権」はその有力な優先順位かもしれないが、それが万能であると信じてもバカを見るだろう。
正直、彼女の活動家、研究者としての姿勢には敬意をもっているが、口を出す案件が、自分の価値観とその背後の階層性や序列でそれを評価することが有効か、どこからそうではないのか、といった見定めには無頓着な気がする。
ここからはタチのよくない冗談として読んでほしいのだが、サンフランシスコ市議会でオウンゴールしていた目良氏という人いてがアメリカ国民なのに(あってる?)、反サンフランシスコ条約というか反東京裁判といった反米史観を、市議会という順位なりにアメリカを代表する機関に受容させようしていたらしくて、その話に見られる無謀な情熱と、ここまで氏名にふれてこなかったが、上にふれてきた彼女、エミコヤマ氏が日本語環境のなかで、リスペクトが含むヒエラルキーを共有してない人に果敢に挑み、時間を無駄にしている情熱は、こうしてみると、何かしら似ているような気がしてしまうのである。

先の記事の後半については次に続きます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。