キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

儀式と衝動

稲刈りをしなければならないんです。そんな季節なんです。この前どこかで先送りする衝動の原因は失敗することへの恐怖、先送りするタイプの人は衝動性の高い人という記事がありまして、よくわかるんです。農繁期というのは複数の人数で重機を動かして、農事のある過程を片付けるものですから、ましてうちは圃場としては条件はよくないし、息災に、無事故に終わらせることへのプレッシャーがかかります。こんな時期は何も手につかなくってセンシティブになるんです。昔よりはよくなりましたが。でもこの時期、野菜ならいろいろできるのに今になっても精神的な余裕がもてない。困ったものです。

まあ大昔なら米の収穫っていうのは一つの家族なんぞの手に納まるものではなくって、古くは集落そのものや、新しくっても血縁数世帯なんてザラだったでしょう。そうしないとみな食っていけないですから。でかなりの物量仕込んでもなお、不確実性の先にある収穫を個人や家族を越えて多大な犠牲を払って得られたからこそ、収穫への感謝とまた来年の恩恵を祈って、祭りなんだろうと、だいたい作業終わった頃には秋祭りですからね、思って。基本、生産を中心として生きるためにいろんな拘束を受けているからこその無礼講なんだったと思う、祭りって。

まつりごとっていうでしょう。政治って言葉の和語ですけど。基本、民を食わせることってのはこの生産を滞りなく回していくことですから、不確実性を乗り越えるために、何かこの世を越えたところと関係をもつんです。そのために祭祀が必要なんでしょう。食わせることが民政ですから、政治というのは節目ごとの祭祀をちゃんと行うことがまつりごとの意味なんでしょうね。

で話がかわりますが、このたびの安保法制の整備にまつわる騒動なんですけど。半分、諦念、半分、侮りまがいの感覚で「祭り」だ、って思ってたんですけど、上のように思いついたとたんに、その意味が真逆に転換した思いがしたんですよ。ああ、これはまつりごとという意味での「祭り」なんだと。翻訳語の「政治」しかも民主制、近代になってからの押しつけの代表民主制、代表を選ぶことへの参加と云いながら、実は排除と選別の代表制ではなく、ムラの成員の全員に参加が(一応、基本)開かれている村祭りというまつりごとなんだと。参政権がないっていう市民の方々も随分このたびの騒動には活躍なさったじゃないですか。

もちろん参加が開かれているっていっても、議決って意味じゃなくて、祭祀ですよ。じゃあ何の祭祀か、多分、「禊」あたりだと思います。数十年の国是を転換する(法案を読める人にはそんなものではないらしいが)落とし前なんじゃないですか。多分、この国の古代なみの無意識としてはそんな事柄は、排除と選別を介した代表が粛々と議決して決めることじゃなくて、祭りを経て受け入れる、受け入れられる事件みたいなものなんですよ。

実は何であまり政治的発言をしなかった芸能人が安保反対と言いだすのか、いきなり大学教授がらしくない暴言を使い始めるのか、不思議でたまらなかったんですが、腑に落ちた気がします。前者は祭りなんですから芸能はむしろそっちの領分だし、騒動による示威を選択した時点で後者の役割は神輿を煽ることですからね。もちろんその人たちの善意や真意を否定するわけではありません。みんな本気でやりつつ、それが儀式になってしまうことが問題なんです。

で今回の儀式の恐ろしいところは、国内に開かれていたばかりでなく、海外、とくに隣国にも開かれていたということですね。でこれを最前のように儀式の演者としてのみ見做すことだけは、実はやめておこうと思います。あまりに浪漫主義的というか厨二すぎて自分でも信じ難いというか。でも一つだけ言えることは、この国の祭祀の長がいまだにおられるとして、その言祝ぐ力の及ぶ範囲はこの国一個におさまらないのではないか、という疑いに駆られ、慄然としつつもうんざりとした思いを抱くことも事実なのです。

 

さて書き上げた、または読み終わられた上のもはやポエムへ一言つっこんでおくとするなら、個人、筆者の神経症から社会にのそれに及び国家単位の集団神経症へ言及する構成はなかなか痛々しい感じもします。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。