キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

書き始めて終わらせる

今日は新しい記事を書こうか、悩んだのだが、書いてみる。薄い文章をあげて、毎日更新してますってアリバイ作っても、読む価値、何か新しい提案、視点なりを提供できなければ、何のために読者に時間を割いてもらっているのか、申し訳ないということになる。かといって自分なりの提案、視点を隙なくフル武装で帰結まで展開しなければということになると本を書くほどの物入りになる。この前、川澄綾子について書いたが、あそこで触れたゼロ年代の声優の演技の変質にしたって、エビデンスの検討を含めて形にするなら、なかなか骨な気がする。というわけで便所の落書きのような軽さで物を言える場所はありがたいし、それに甘えて、蓄積していった自分なりの気づきを吐き出したいと思うわけだ。
とはいえその動機を形にする、書けるほどに高まるにはきっかけがいるものである。多分冷戦後なのだと思う、とは4月の安倍総理の米議会の演説の頃から考え、このブログを始めたのもそれが言いたいがためなのだが、えらく時間がかかった。ただ形にならないのなら、書いたものを出せばいいのにという姿勢もありなのだが、そうするとまるで書かなくなるのである。やはり更新を続けるという枷は、人を机なり機器に向かわせるだけの力をもっている。
しかし書いてみたい、形にしたいという欲求には熱さがいるのだ。エウレカというような、視野に塊が落ちてきたという興奮が。たとえばGレコの感想について書きたいと思っているのだが、それがどんな文章になるのか見えてこないので書けない。主旨の一つは「詰め込みすぎ話法は物語上の善悪を括弧に入れるために必要だった」というものだが、どう落とすか、見えないと読み物にはならない。川澄綾子以降の声優(現在の売れっ子)にしたって、誰かを特筆して終わるのか、未来を展望するのか、見えてない、読み物はオチを必要とする。
が、考えてみればオチは最も作者が言いたいことかというと、必ずしもそうではなく、それまで論者は縷々情熱に駆られて書いてきて、それを停止させる、切断させるのだから、逆に一番、論者にとってウソに近いものではなかろうか。終わりとは取り繕う、でっちあげるものに近い気がする。
どう終わらせるっかていうのは読み物の永遠の課題なんだろうな。

最後まで読んでいただきありがとうございました。