とはいえその動機を形にする、書けるほどに高まるにはきっかけがいるものである。多分冷戦後なのだと思う、とは4月の安倍総理の米議会の演説の頃から考え、このブログを始めたのもそれが言いたいがためなのだが、えらく時間がかかった。ただ形にならないのなら、書いたものを出せばいいのにという姿勢もありなのだが、そうするとまるで書かなくなるのである。やはり更新を続けるという枷は、人を机なり機器に向かわせるだけの力をもっている。
しかし書いてみたい、形にしたいという欲求には熱さがいるのだ。エウレカというような、視野に塊が落ちてきたという興奮が。たとえばGレコの感想について書きたいと思っているのだが、それがどんな文章になるのか見えてこないので書けない。主旨の一つは「詰め込みすぎ話法は物語上の善悪を括弧に入れるために必要だった」というものだが、どう落とすか、見えないと読み物にはならない。川澄綾子以降の声優(現在の売れっ子)にしたって、誰かを特筆して終わるのか、未来を展望するのか、見えてない、読み物はオチを必要とする。
が、考えてみればオチは最も作者が言いたいことかというと、必ずしもそうではなく、それまで論者は縷々情熱に駆られて書いてきて、それを停止させる、切断させるのだから、逆に一番、論者にとってウソに近いものではなかろうか。終わりとは取り繕う、でっちあげるものに近い気がする。
どう終わらせるっかていうのは読み物の永遠の課題なんだろうな。
最後まで読んでいただきありがとうございました。