キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

ゴタゴタは続く、飽きるまで。

書きたい話題もなかなか形におさまらないので、終わらない五輪エンブレムの件について少し触れようと思う。結局あの佐野氏の五輪エンブレムは取り下げられてしまったわけだが、佐野氏の以前のデザインの仕事にまでパクリやコピペの疑惑は拡散し、他方、審査委と大会委の選考の不透明さは晴れない。詳らかにされるべきその事情の不明を埋めるのはゴシップである。おエライさんの私物化という定型の物語が流布され、さもありなんという形に収まって、非難ややれやれの声の中で論点を切り取ろうとする努力は劣化していく。

この事件への私の興味と言えば、この前も書いた選別のさいの正統性の問題なのだが、経過をみてとると、当選案から最終案への修正は審査委も知らなかったそうなので、正統性は損なわれてしまったと言わざるを得ない点が目につく。なんでこそこそとやるのか、という話と、なら表に出すなよという呆れで脱力する。何を自分が扱っているのか、選ぶ側がよくわかっていないのだ。

応じたデザイナーも応じた方である。優秀なデザイナーなんだろうが、選ぶ側から無茶ぶりされて簡単にどこにも似たものがないデザインが捻り出せると思ったんだか。それだって目的のコンペなんだから、コンペを軽んじていることになるし、海外ではどこかに似たものがないようにするのにそれなりにコスト掛けているっていうんだから、安請け合いのそしりは否めないだろう。凡人にはできないけど俺の培ったスキルならできると思ったんだか、それともそのチェックはクライアントの預かる下駄だよって割り切って、やっていたのか。

このあたり他方、私はアートなどには不明だが、プロの劣化がおこったと言われても、文句が言えないのではないか。くわえていえば既に言われているが、一種のソーカル案件の様を呈しだした感がある、今更言うが。みな佐野氏を擁護していたのは、デザインを読む美学的なだとか、デザインを構成する工学的なとかの知の体系があって、それを背景に佐野氏はまっとうだと言っていた。が単純に実は佐野氏の仕事が半端だったから、その知がでまかせだというのではない。ある知に依拠して創作で何かが生み出されるなら、それは知であるからにはいろんなものを既知にしてしまうはずで、そこから未知の何かを生み出すとするなら、それはその未知の何かとともに、そこにその知が再び初めて発見されたかのように生み出されるはずだ。たとえば、佐野氏が佐藤可士和氏のデザインが「ポンポンと配置」したものにも関わらず新鮮だったことに驚いたように。ここでは佐藤氏が生み出したそのデザインに「ポンポンと配置」というプリミティブな技法が再び新たに発見された驚きがその新鮮さをなしているのだ。そして、こんな特権的な事件がしばしば起こるわけではないが、およそ何かを知ってそれに依拠して創作しようするならば、それは既知の範囲内のものなんだから、せめて知に依拠することに居直ることなく作業しようとするくらいの抑圧を創作者は受けて当然なのである。

どんどん佐野氏を擁護できなくなったというのは、その当然と思っていたことを当然と思っていなかった人がいたことへの失望なのだろう。いわば(自分たちの知の信頼を下げた点で)あっソーカルがいた、という残念さが否めない。

そして次々と発見される佐野氏のコピペ疑惑に対しては、氏は何かを生み出すために知に脅かされていたというよりは、知に保護されて創作していたという気がして仕方ないのである。

 

最期まで読んでいただきありがとうございました。