キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

フラクタルな働かなくていい未来

書かずに流してしまおうかと考えていたのだが、せっかく思いついたことだし、異論、暴論に近いものとしてなら、文字に残しておきたいと考えたので書くことにする。少し前、堀江貴文氏の障害者差別騒動というのがあった。「生産効率の悪い人は働かなくていい」といったツィートに過剰反応して「(例えば生産効率が明らかに悪い、最もこの前提もどうか?なのだが)障害者は死ねというのか」と巻き起こったほとんど捏造に近い騒動なのだが、この「働かなくていい」という意見が出てきた背景には堀江氏のツィートを遡ればわかるようにアマゾンのロジスティクス省力化の話題がある。このあたりの事情はBirth of Bluesさんで知ったが(『ホリエモン「アマゾン倉庫のロボット技術すげー」地球市民「障害者に死ねというのか?」しばき隊「18世紀の功利主義」「ケインズを読んでいない」』15/8/24リアクションの流れがひどくて笑える)、主要なトピックとしては機械化、ロボット化が人間の仕事を無くしつつあるよね、どうかなというものなのだが、見事にこの論点がスルーされてしまったので前述のように笑える。

が問題は笑うことではなくて、この論点への堀江氏の構えである。要約してみると(機械化が進行すると人間を必要とする仕事が少なくなるので、その)仕事は生産効率の高い人にあてがって、社会は富、豊かさを最大にすることのみに配慮すればいいのだ、ということである。労働から排除される人については「生活保護もらって呑気に生きればええやろ笑」と言っている。(そのスティグマを考えると)生活保護と言う語が誤解を招くかもしれないが、それで社会がまわるという前提で言っているのだから、これはベーシック・インカムでやればいいという話と捉えるほうがあたっていると思う。わかるたとえかしらないが「フラクタル」みたいな社会でいいやん、ということである。

この先思弁を語るので予防線をはっておくが、下の思考実験を必ずしもわたしは信じていないということは言い添えておく。ようするにフラクタルみたいな社会が可能とか問われれば、イマイチわたしは信じることができないのだ。

話を戻すと、そしてこのあと人間の尊厳の問題として労働への参加、社会貢献への意欲を認めるべきではないかという反論が当然の如く現れ、もう片方ではある職種では障害者=生産効率の悪いことではないことが語られる(ひろゆき氏)。両者とも正論には違いないだろうが、堀江氏の幻視には追いついてないと思われる(本気で思っているかは知らないが)。おそらく堀江氏の幻視する省力化が実現された社会では圧倒的に「労働したい、できる人間の数>人間が必要な仕事の数」で労働の市場は生きてる人の需要を満たさない。労働する人は適した人に限られることになる。そうして効率の高い人を働かせて得た富はそれ以外の人に再分配すればいい。そのためには効率は最大化しなければならない。

すると人間の尊厳を生存とともに労働なり社会への貢献に求める倫理は実態に合わなくなる。生存の尊厳と労働の尊厳は不可分なものであったがそうともいえなくなるのである。たとえば国家ができて民族と国籍が切り分けられる事が起こったことが類似した事態と言えるかもしれない。生存と労働が切り分けられ、多数の人は生存の尊厳を自分の生への配慮というか態度(ボランティアだってそうだろう)で満たさなければならなくなる。堀江氏は「無理して嫌な仕事する必要ない。楽しいことすればいい。」と言っているが、実はこれはつらいことでもある。自分の尊厳を自分の生だけで支えるのは重い。

さてここまで妄想を逞しくして、堀江氏のツィートから未来の「労働の尊厳のデフレ」を読み取ってきたわけだが、一方で、ある思考がこの「デフレ」と相似しているのではないかと提起したい。それは1970年代(もしかしたら80年代も引きずっていた)の障害者解放運動が共産主義社会を求めていた論理である。「重度の肢体不自由者にとっては寝返りもまた労働である。健常者が労働するのと同じような価値を認めなければならない。しかしそれは労働を市場で売り買いする自由主義の資本制社会では不可能である。そのため万人の価値が平等に認められた市場を廃棄した共産主義の社会を実現できなければ、重度の障害者はその労働の対価を得る事ができない」という主張があったのだ(ほんとだよ、たしかこんな主張だった)。

ここでは逆に生存の尊厳のインフレーションが起こっているのだろう。労働の多寡の価値は有意義な差をなさないと考えられる(経済学からの比喩が危なっかしいが)。この両者の発想は、方向は別からだが、生存と労働の尊厳が矛盾する中で(生きていることは「事実」だが、労働はどれだけ役に立つか、「価値」の話でもある)、どうすれば労働の厄介さを始末すればよかろうかというアプローチではないだろうか。もし「フラクタル」みたいな社会が到来して、自分の尊厳を自分の生だけで支えることになるのであれば、かっての障害者解放運動の真剣な思索(団体の分裂とか)に何か、教えられるべきものがありはしないか、とも思うのである。

 

ついでに「フラクタル」について、せっかくだから一点、フリュネが処女かそうでないかは実は曖昧にしてあったと今は思っている。

最後まで読んでいただきありがとうございました。