キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

五輪エンブレムのこと

五輪エンブレム使用中止の件だけど、もやもやするものがある。オリンピック自体あまり興味持ってなかったから8月初めに「パクリ」や「盗作」というワードで話題になり出したときに、「これが似て見えるというのは、アニメキャラを見分けられないというのと同じ」という説明にまあそうだろうな、抽象的なデザインだから似たようなものは出てくるだろうが、図像として読むべき示差する要素はあるだろうし、コンセプトやらストーリーとか別の意匠たらしめるものはあるのだろうと思っていて、それで終わっていた。にわかに吹きあがった佐野論壇のなかでは知性主義的な位置づけで眺めていたことになる。だから使用中止の顛末はデザインや抽象的な図像の見方からするともやもやしてしまう。

で、そのアングルからそこに収まりきれないくらい、騒動は拡大していって上の観点は騒動の中の争点の一つに過ぎなくて、それを整理してくれた評者もたくさんいる。

問題の初めにこのエンブレムが気にいらないというたくさんの意見があった。それをどう説得できるか、もしくはそんな意見が多数派にならないようにものを決められるかって話に整理できないかと思っている。だから佐野氏のデザインの姿勢とか業績の話は副次的な要素かと。だからデザイナーの佐野氏への擁護ってのはデザイン論の啓蒙に終始することが多かったから、実は的を外していたのかもしれない。
実は利益関与者が無数にあり、ネットのおかげで意見表明が容易になった時代に、ものを決めるときにどう正統性と正当性を担保するかって話なのかと思う。シンシアリーさんの韓国の憲法論みたいな用語だけど。

コンペという選別の正統性にかんしては、密室でやってる、利権ではって取り沙汰されているけど、それは妄想で、閉じられた集団でやってしまうことの必然と合理性はあるらしくて、あまりこれ以上公平性を高めることは望めそうになさそう。で次になぜこれが選ばれたかっていう理由づけ、正当性なのではあるけども、なぜこれを審査委や大会組織委が説明できなかったかという残念さが指摘されている。エンブレムという図像にはコンセプトがあって形には意図があるのでなぜデザインのプロセスを説明できなかったのかという。基本的には私が与したいのはこの意見。でも話をはここで終わらない。

が、実際のところ、経過を追ってみると説明しなかったわけじゃないのですよ。「躍動的な形」とか、「展開しやすさ」とか。これが困るのはこれで納得してもらえなかったこと。要領を得なかったわけで、みんなに納得してもらえなかった。この拙い説明も、ベルギーの劇場の提訴の件があったのか、最終案と当選案は形が違ったとか言い出したので、台無しになった。コンペの意図がデザインを選びたかったのか、勘ぐればデザイナーを選びたかったのか、ということになって、デザインの擁護もハシゴを外されてしまった。最終案こそ唯一のものなんだから、経過はどうあれ、それを説明できる言葉をもたなければなかった。意図を説明できる知性をもたなければならなったということになるんだが、どうなんだろう。
今回の場合最終案と当選案がちがうものだったから、エンブレムの不満に分があったが、経過も結果も公正であの説明ならどうだったのだろう。また当選案と最終案が別のものだったにせよ、デザインさせたのはクライアントなんだから、今回の場合も説明できる言葉を持っていなければおかしいのだ。だからもしかして同じような説明しかできないんじゃないだろうか。ならまだ話は収まってないだろう。また知性がある人が納得できるくらい学のある説明ができたにしても話は収まっているのか、定かではない。なぜこのエンブレムなのか、選ばれたコンセプトからプロセスを説明できたらという話も、誰が説明するかという主語の問題で、結局知性主義対反知性主義に話が帰ってきていて解決策につながらない気がしてしまう。
これはクライアントあってのデザインなんだから、クライアントも知性を持てよ、ということなんだがコンペするクライアントも知性に頼って話を進めるつもり、能力がないんだから、実は反知性対反知性の様を呈してくる。
国民から付託されている組織委や審査委が納得させる説明ができなければ、識者のデザイナーが何をいっても火に油だった経過を看れば、誰が説明するかという主語の点がもしかして肝で、これは知性ではなく信、信任の問題ではないかと思うのである。どう選ぶかという正統性の、この場合誰が選ぶかという、話に戻ってしまう。

ここまで進めて触れたかったので後回しにしたのだが、選別の正統性を担保するのに公平性とあわせて透明性も必要なのである。密室批判に備える場合、密室に入れるのは誰かという資格の問題と、なぜ隠れた場所でするのかという必然を説明できなければならない。今回の場合、エンブレムを提案するだけでなく、あとのデザインの仕事もあるらしいので一般公募ではなく、デザイナーから選ばれるのは仕方ないだろう。透明性については優秀作品くらい公表しろよという声もあるが、そぐわない面もある。エンブレムはイベントの理念、意図を表象するものだから、それを選別することは運営する側にまるごと付託されていてもおかしくないものだからである。いわば最終案しか公開しないことは選ぶ側の権力の正統性、沽券に関わるものだからである。で、選ぶ側の正統性が何に担保されているか、それは行政のそれで長の首長、立法者たる議会からで、その首長と議会は有権者の投票から付託されているわけである。もっともイベントの理念とその図像化の選別は切り分けられないわけではなくて、一次審査、公開二次審査で広く投票という手法もあり得る。しかし選別は全て透明、一般の直接投票による人気投票の集合知でうまく行くという人もいないだろう。
今回の場合デザイン、知性主義というのは狂言回しに過ぎなくて、運営に必要な理念の展開としてのデザインという設計主義的な知性を、機会主義的に道具として大鉈振り回そうとした反知性のその無邪気さと無遠慮さと無思慮にたいして、ふるわれる側の不快さをとにかく反知性的にでも結集して意趣返ししたという粗筋の寸劇のように思える。
知性主義は犠牲となったのだ。
じゃあどうすればいいかというと、正当に信任を付与されたものが道具として知性主義を使いこなせばいいというありきたりな話に流れ着く。マネイジメントとか、ディレクターとかいう縦(時間)にも横にも大きく見渡す知性が日本にも必要という出羽守案件になる。しかしマネイジメントやディレクターという知性は長期を見渡す道具かもしれないが、それを使いこなす権力を信任するのはせいぜい4年である。
ずいぶん風呂敷が広がってしまった。もはや広げた風呂敷の端はおぼろげにしか見えないので、粗めにかいつまみたい。

・首長とかリーダーが変わったらどうするの?
リーダーをTVシリーズのプロデューサーにたとえるなら、交替したら話が変わってしまう。たとえば「仮面ライダー響鬼」はプロデューサーが交替したら話の雰囲気が変わってしまったではないか(これは交替前が酷いとの世評がだが)。実際東京五輪だって公式もののデザインがダサくなったと世評が高まったのは首長が変わってからではないか。リーダーに左右されないマネイジメントを持てということだが、マネイジメントをリーダーが手が出せなくなるのもおかしい。

・スキャンダルとかでマネイジメント担当とか変わる
前のサッカー日本チームみたいに。サッカーは知らないがしばしば内部の路線対立だったりする。

・協賛のクライアントとか国民からの不評でマネイジメント担当降板
準備期間が短くなって統一性がなくなったりする。尺の半分を作風の違う二人が撮って、脚本も一部差し替えて編集をプロデューサーがした映画みたいになる。

・求心力維持のネタにリーダーがガンガン口を挟む。
結局、リーダーの作品になる。マネイジメントはイエスマンが担当する。

とか日本ならではの起こりそうなことが思いつく。どうやればうまくいくかということは簡単ではないが、以前は長期の信任を受けることのできたリーダーを背景に共通了解があって、起用された運営するスタッフに破綻が起きにくかったから、マネイジメントとかが必要なら、そこで補填されていたのだろうと思う。