キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

冷戦後一件

ブログを始めるにあたって、ものを何か書くのであれば時事的なことは柱の一つにしたいなと考えていて、しかしWebの世間を眺めてみるとそれは地雷を踏むことにあふれていて、戦後70年の安倍談話のあと、以前から考えていたことを書こうと思いながらも、無学なんだから破綻のない書き方とか、当たり障りのない書き方をなど、唸っていたのだが、とりあえず、書いてみることにする。結論から言えば国際社会をみてみると冷戦とその後の勝利者の覇権の時代が終わり、その次の時代が始まっている、模索されている、と考えたいということである。特別な観察がいるわけではない。アメリカが他国に安易に軍事介入することをやめて世界の警察官を休業したらしいことはみなさんも承知していると思う。問題はアメリカは国益だけでなく価値観で外交するので、そうなると冷戦時代の価値観と物語が終わって、価値観は引き継がれるにせよ、別の物語が始まっているのではないかということです。

冷戦時代というとwwⅡというファシズムとの闘争の勝利者が自由な市場か、計画された経済かに別れて覇権を争っていた。その後は自由な市場が勝利してそのリーダーは世界に覇権を及ばせた。で今は覇権は終わった。でも別の価値観があるわけでもない。

実際アメリカが警察官をやめたといってもただ軍を出さなくなったわけじゃない。原則的なことを言いつつ、紛争の当事者を非難し、手は出さないながらも、アメリカと価値を共有できるもう一方の当事者がいれば支援するわけです。基本、地域のことは地域の当事者同士で解決してね、でもアメリカと価値を共有できるプレイヤーがいたら肩入れはするよ、というスタンスに感じられます。直接関与するから間接に関与するというやり方に変わってきてます。この辺りのことはオフ・ショア・バランシングという考え方がオバマの外交戦略として、リアリズム外交の文脈で語られていて説明されています。ロシアを非難するけど手は出さない。イラクは周辺国に関与してもらうなど。このやり方は表で口に出していることと背後で交渉していることがちがってきていることもしばしばのようで、外信から時事を読み込んでくれる識者の読みに驚くことも多い。中東から中央アジアなんかは複雑怪奇にしか思えない。

でもこれは戦略の説明であってリアリズム、エゴイズムであって直接の外交の言葉になるわけではない。アメリカは価値観でも外交するのでその価値観を敷衍するために直接他人の土地で武器を振り回すことができなければ、アメリカの抑止力の代わりに力を持って価値観を共有してくれるパートナーを求めることになる。ここで確認したいのは先に触れた冷戦とその後の場合、二陣営が覇権を求めて争って、覇権がゴールなんだったから勝者が賜杯を手放したらその物語は新規巻き戻し、別の物語が始まることになるということ。ここで価値観を共有しともに進むパートナーを求めるとするならば、そこでもう別の物語が始まっているのではないかということです。たとえていうなら覇権があやふやになった。世界の平和は曖昧なものになる。そこで第一期のオバマの選挙のように各国に「you cann change」とオバマが世界に呼びかけていると。はっきりした演説はないけどそんな時期じゃないかと考えるわけです。加えていえばそこで我らの安倍ちゃんは米議会演説や談話でその呼びかけに「yes we can」と叫んだんじゃないかと思うわけですね。米民主党員かよと突っ込まれるかもしれないけど、あの一連の演説はそんなもんじゃないですか。サンフランシスコ講和条約史観に対して挑戦してないし、則っている。

脱線するけど、実はこれはすごいことだと思うんです。「日本が悪いわけではない」と言い募っていた子供っぽい男が、もしかしたら謝りたくないばかりに「日本が過ちを犯した」という史観に自己を洗脳して反省を口にし、未来に貢献したいって宣言するって、元の子供っぽい男になかなかできることではないです。進歩して二枚舌使えるようになったと思いたい人もいるかもしれないけど、言動見てると元のバカさが払拭されたとは思えないわけだし、もし背後に宗教があって信心の力でできたならすごいことだと思う。「武力を表舞台に」、「謝りたくない」という稚気と引き換えにほかの大切なものを売ってしまって得た鈍感さの怖さがあります。みんな安倍さんは本音は大日本帝国史観への回帰で、今は仮装しているのだろうと思っているのでしょうけど、そんな賢さがあるのなら第一期の政権でそれが発揮されているはずで、むしろ自分の信条はあるけどもうそこへの執着が失せていて、もはや状況に応じて入れ替え可能なもので、もうかっての信条の実現への頑なさがない、自分の任期に実現可能なものと信じてない、そういうニヒリズムで政治をやっている怖さがある。このニヒリズムを得て政権を得られたのなら、そのニヒリズム有権者のものでもあるはずでそれは何だろうとも考えてしまうんですけどね。

話がはずれましたが、で冷戦がその後の覇権も含めて始末がついたとすると、実はその起点の戦勝国の秩序、多分サンフランシスコ講和条約とか国連、というのは正統性が揺らいでくる。ファシズムとの闘争の勝利者という遺産がいつまでも価値観としての優位を与えてくれるものではない。まして世界の失われた覇権を価値観でのパートナーシップで行動することによって補填して作為する状況において、過去の道義的な優位性は現在の地位の担保にはならない。かといって地域的な覇権を確立して、欧米なり日本なりの世界から抜け出そうとしても、もはや経済的に世界の全てが結びつきすぎていて自立は難しい。この辺り、ロシアや中国は敏感に感じているようで自らの地位が正当であることを声高く主張しているように見えます。そしてここで地域の覇権を拡張する行動をして(地域の大国としてのDNA)、周辺の合意や共有できる価値から説明できないとそこで緊張が高まってくる。あたかも冷戦が地域で再開したかのようになります。まして冷戦から生き残っている国もありますから、なおさらです。

さてここでこの事態を今までの時代と連続してとらえて冷戦の再開と見るのも正しいでしょう。そこからアメリカの一貫した覇権主義的な行動を見て帝国主義への批判をするのも有効だと思います。実際国家はリアリストでエゴイストであり、そこは一貫しているでしょうから。

がそこで別の見方もしてみたい、そのほうが面白いだろうと考えます。たとえば私がここであえてとうとう冷戦がカタをついて時代が変わったと言ってみたいのは、今時代が始まりつつあるとあえて言ってみて、現在を評価していく時に、その時代が終わった時点の視線から、あたかも後世の歴史家の視座から現在がどう見えるかという設問に対して意識的でありたいと欲求してしまうからです。時代が始まるというのはその手かがりなのです。今がどんな時代だったかということは後世から見えてくるものですが、現在について考えて後世からの時代像をあえて仮構することが、ある出来事が後世について何かフラグたることがあり得るかもしれないと思ってみたりするわけです。人生も半ばをすぎるとバカなことを考えてしまうものです。自分の生きてきた縦の広がりと歴史が繰り返すことを以て何か見えては来ないかと目を凝らしたりするのです。たいしたものは書けませんが。

ああそうだ、そういう点からすると結論として言いたかったのは、この価値観外交は相手あってのものだから、オバマのスピーチから何か始まったと見られるよりか、パートナーのスピーチで始まったと評価されそうな気もするということ。案外今年の安倍さんの二つのスピーチは歴史的なものに後世位置付けられるかもしれないと思う。まあ次、共和党になって対外積極に行動すれば、話はまた違ってくるけど。

地域で緊張が高まっていくことをどう考えてみたらいいのかはまたの機会に書けたらと思います。