キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感4

響鬼の隘路と大魔神カノン

実際、響鬼本編でも明日夢響鬼と出会い何か模索しだしてから、大きな課題らしきものは、この28話で万引き少年から暴力を受けて塞ぎ込みだした件、これほど大きなものは見当たらないのである。「現実はつらい」という課題が後半のどこかで提起されるつもりだったことは間違いないだろう。終盤付近か残り20本近くかけるつもりだったのかはわからない。加えてしかしいくら早くても4クールの折り返しを越えて提起するのは遅すぎる感が否めない。 

実際この点に響鬼の隘路があったような邪推をして仕方ないのである。たとえ着地点がクウガの霧島君の再話だったとしても、一年をかけるそこに至る道筋、課題を設計できなかった、もしくは間に合わなかったという気がするのだ。クウガの財産、手法をブラッシュアップすればそれは自然に出てくる(それがおそらくカノン)、しかしクウガでは日常のシビアな劇はたいてい雄介を浮き出させることに奉仕している。雄介の善良さがクッションになっている(だから最終回では姿を消す、でも現実の当事者はそうはいかない)。しかし、それを格別な長所も持たない日常の主人公が立て続けに受け止め続けて、同様に格別の長所を持たない視聴者から支持されるだろうか?または支持されるような落とし所の回だけで構成できるだろうか。放送しているのは日曜朝なのである。

手法や素材はありながらも、番組枠や視聴者に相応しい題材と提供の仕方を日常側のドラマでどう積み上げていくか、迷って遅れて、製作陣(とくにP)は最後までそれを払拭できなかった気がするのである。逆にその点にはっきりとした見通しがあって、届けたい熱量と確信があったなら、最後まで路線変更に抵抗してプロデューサーの降板は避けられたと思う。

あと補足しておくと日常側にドラマ作りの重心が移動していったことが、よく指摘される日常に非日常を構築するリアリティが薄くなっていったことの背景にあると思う。深く描写は立ち入らない方針はあったとしても、考える物量が日常の問題の方に移動したことは大きかったのではないか。

この響鬼で持ち越した宿題に再挑戦したのが「大魔神カノン」であると思う。とはいえカノンでは父性の問題は後退するので、前半の父性の問題を何とか引き継いで完結させた後半にも少し触れておく。

後半でプロデューサーと脚本家が交替して、ドラマの焦点は父性の問題に絞られることになる。しかし、前半のように日常の問題に寄せて語るよりか、非日常の設定に寄せて語られているので、前半の制約は解かれているといえる。

ここで触れたいのは新キャラクターの桐谷である。前半を好きな立場からしたら嫌われることの多い登場人物なのだが、テーマの父性の問題を引き継ぎ、形にしなければならない課題から考えると、無理に他人が作った前半の雰囲気を壊さないよりかは、自分の手法に取り込んだ方が誠実ではないかと考えられるからである。実際、響鬼を越えるとうそぶいて、殉職した父親を響鬼に見出し奉職ルートからの子供の父性への乗り越えの願望によって父性の主題を明確にしていく展開からは、父も特撮作品の脚本家であった後半の脚本家井上敏樹自身を思わせる面があるからだ。また口の悪い面からも巷間伝えられる氏の印象と重なる面も多い。もちろん桐谷が井上氏自身というわけではではないが、前半から主題を引き継ぐにあたり、借り物を小綺麗にまとめるのではなく、私小説的な面が香る危険を犯して自身の持つ要素に引き寄せた方が、前半の主題、とりわけ父性という普遍的なもの、に対してより本気さを感じられないだろうか。

前半に対しての誠実さという点でもうすこし後半部は評価されてもいいと考えるのである。

 

次は響鬼の後半ifとカノンです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。 

 

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感3

響鬼の困難

 響鬼では視聴者と同じ目線の人物が日常にある問題に当事するドラマがメインで、ヒーローのドラマがサブで描かれる構想だったのでは、と書いてきた。実際本編でも二つのドラマが並行して進んでいる。ここからはこの思いつきのとんでもない点にふれたいのだが、この構想には難所、隘路めいたものがそもそもあり、役者を見て思いついた内容にしては、それが枝葉の部分の修正、追加に留まらない企画の主旨の根っこに関わる部分だったため、準備不足やら、考えて答えを出すのが間に合わないという事故になってしまったのではないか、と考えるのである。

wikiをみると、企画の時点での響鬼の基本コンセプトは「師匠と弟子のバディもので、弟子となる若者の視点を中心としたジュブナイル」といったものだという。これが弟子にならないという修正が加わると、ドラマの筋が複数になる。これは結構劇をつくる上で大きな変更である。しかも日常側の主人公には4クールの一貫した、子供に見せてもおかしくないような、物語の道筋が必要である。これは役者を見て急に考えた変更にしては無理筋ではないか。根っこから企画し直す必要があるくらい、ちゃんと考えないと破綻しかねない変更だと思う。

それと実はこの変更の深刻さを文芸面でスタッフがちゃんと理解して考える対応をしていたのか、なんとなく疑問にも思っているのだ。そうではないと思いたいのだが、視聴者のぼくらが、弟子になるのかな、ならないのかなと釣られているのと同レベルで、バディまがいの仲のいい雰囲気だと、別に成長なり変化のための葛藤やら障害仕込まなくても、従来のヒーローもののパターンなり用意してあったプロットなりで話進めることも可能だろう。徒に話数を消費することだってありうるのだ。実際中学生日記と揶揄されるような、誰もが経験したような、逆に言えば月日が経つと気にならなくなった類いの葛藤を処理していく日常と、仕事として妖怪退治していく淡々とした日々が進んでいたのである。しかし、日常側のドラマを一貫した道筋のあるものにするには何らかの大きな課題が必要なはずで、それが出現する気配が前半一切なかった。明日夢が鬼になるかならないか、「テレビシリーズの展開を見ながら落ち着くべきところを探っていく」とはいうもののそれを見定めるような仕掛けをしていたかは疑問に思う。

ここでこんなことを始めた必然性の仮説を振り返り、日常側にどんなドラマが用意されていたのか考えてみたい。

クウガでは日常的な重みのあるドラマを主人公の雄介がどんな人間か浮き出すための地として奉仕させることも多い、というか主人公にもたらしていく変化として繋げなければならない。そして番組の性格上、主人公の行動は怪人を倒すことに帰結するのだから、どんなに素晴らしい台詞、交流が(それが現実と地続きのものでも)あっても、怪人を倒せるような非現実で切り離された特別な人のものになってしまう。そのような代償満足ではなく、本当にこの番組を届けたい視聴者、まして複雑さを増す社会にいる視聴者、に変化を与えるような力を特撮は持てるのか、そんな命題に挑む試みとして、日常の問題に当事する人物の方を主軸に置いて、怪人と対峙するヒーローの物語がそれを浮き出す地のような物語を、役者の佇まいを見た時、おそらくPは直感したんだと思う。

ではその物語がどんなものだったのかということだが、観れば容易にわかると思うが、「父親探し」である。おそらく、クウガの25・26話の霧島拓君の物語が念頭にあったのだと思う。で、このエピソードの先の五代雄介のグロンギとの対決の挿話ではない少年の人生の中の変化というようなものを描きたかったんだろう。

とはいえ、明日夢君と響鬼さんが仲よくなるのはいいが、それでは、クウガの霧島君が元父親の実家のまわりを彷徨っている状態のときと実はあまり変わらない。上に書いたように問題はそこからどうにか展開しないと説得力ある結末とはならないことである。

しかし唐突に28、29話となって、前半のまとめ、総括みたいな話を作って高寺Pの前半は終わり、後半に引き継がれる。実際クウガの25.26話の粗筋をみると響鬼の28、29話はクウガの25、26話の再話に見えなくもない。クウガの時と同じ結論を再確認したと言えるだけかもしれない。ただやはり少しのニュアンスの違いがあって、クウガの時は悩むことも含めて自分を受け入れたらいい、という肯定のニュアンスが強いが、響鬼では、自分を受け入れる、信じるのは一緒だが「現実はつらい」という言葉、現実の持つつらさを受容しようというニュアンスが加わっている。台詞だけで解釈、構築するというのはつらいし、あまり好みでないし強引なので、補足してみると、28、29話では日常の理不尽な悪意に明日夢君が傷ついた後という内容が唐突に示され、そのことをどう受け止めるかが28、29話で描かれている。

この28、29話はそのプロデューサーの交替を控えて、前話からの展開が唐突でそれなりの量を使って描くエピソードの要約、結末を示したと言える圧縮した感があることを考慮すると、後半の展開、または響鬼が描きたいと思った日常のドラマの課題へのヒントがそこに秘められていると考えてみたい。それが「現実はつらい」なのだと思う。

だから大魔神カノンがあんな話だったのだ。

 

長いよ、終わらないよ。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感2

・構想の問題>クウガの試み

さてクウガなのであるが、実は本放送時は見ていない。1話2話とかネットの投稿はいくらか見て、雰囲気はわかっているつもりだが、だから詳細な分析はできるわけではない。そのまえに仮面ライダークウガがどんな作品かというと、とりあえずは平成仮面ライダーシリーズの第一作目であり、平成ガメラで一定の達成を得ていた現実の延長の世界に非日常を構築するリアル特撮とも呼ばれる作風を採用した作品であると言える。

ここで対象にしたいのは、非日常を抱え込んだ日常の中で繰り広げられるドラマの方である。クウガでは非日常たる怪人に対峙する、クウガに変身する力を得た主人公と彼をサポートすることになる警察という組織との群像劇を日常の延長の手続きで精緻に描くだけではなく、その非日常に巻き込まれる一般市民の側(時に主人公と何か縁があったりする)の側のドラマも書き込んでいく。もちろん主人公のドラマとシンクロしていたり、そこに主人公が関与したりして、丸く収まったり、何らかの前向きの解決に終わるものがほとんどだが、正直重いものが多いのだ。

このあたり、観ていないので、wikiやネットの感想を頼みにして書くのでもどかしいのだが、傾向をまとめてみる。

まず、怪人の殺戮に巻き込まれて大切な人を失ったり、恐怖を感じた人、日常が壊れてしまった人のドラマ、これに関しては物語の中で何らかの解決はあるけど、本質的には終わらない。深く考えるとエライことになる問題を取り入れている。次に人間関係の身につまされるような問題、等身大の悪意や家庭の問題などの普通の劇映画にもなりうる日常で視聴者と共有できるドラマがクウガではとても厚くなっている。特徴というか主題として見て取れるのは、一貫してこの分野では父親の影が薄くどうやら父性が問題になっていること、過去を見れば父を亡くしたという人物ばかりだし、家庭を見ればやたらと母子家庭がでてくる。ヒーロードラマにおいて父性というのは一般のドラマ以上に劇として成立しうるかの根幹に関わってくるものであれば、これらのドラマが日常的なリアリティを深めるものであるだけでなくが、ヒーロー作品としての性格そのものに関わってくることが窺える。だから、日常の等身大の悪意が人を傷つけていくことも、怪人が暴力で人を傷つけていくことだってシンクロしていくのである(これはクウガでは想像、未確認。しかし響鬼以降では顕著)。

このような日常、事件の本筋を取り囲む人々のドラマが、クウガでは怪人と対決する事件そのものを辿る粗筋と並行して描かれる。もちろんそのサブドラマの解決にも主人公が関わることが多いし、メインのドラマとシンクロしてその話数のテーマを描くことにも貢献してはいる。しかしどんどん実社会の身も蓋もなさをとりこんでいって、もちろんその身も蓋もなさの中でどう生きてほしいかを制作者は伝えようとしているのはわかるけれども、ヒーロードラマとして収拾がつかなくなりかけている。

またシリーズとしては機能しているものの35話で怪人を凄絶に葬るエピソードと保育園で喧嘩していた園児が和解するエピソードが並行して描かれているように、メインとサブのドラマが同調するというよりかは、対立しながら対照でもってメッセージを描くこともある。ここでは日常が前向きに終わるが、手法としてはサブの日常の方を希望を宙に吊った結末で締めることもできるわけである。実際感想や情報をに目を通していると解決できなかった葛藤もあるんじゃないかと想像するが、上のようにサブドラマが重いと、このドラマの作り自体がメッセージを明確にするというよりかは、分裂への傾斜を含む危険がある。

そんなわけでクウガでは解決しがたい葛藤を抱えた実社会を取り込んだ厚みのあるサブドラマと怪人と対決するメインドラマが同調したり、対立して対照したりしながら全体のドラマを作っていると考えられないかという仮説を提起してみたのだが、響鬼という作品の肝はこのメインとサブのドラマのどちらがメインでサブかを引っくり返そうとしたことではないかと思っている。非日常のまわりで実社会の問題に当事している視聴者と同じ目線のドラマがメインで、怪人と対峙しているライダーのドラマがサブなのである。明日夢君が実は主役ではないかとはそういうことである。おそらく響鬼のオーディションで役者を見たときに思いついた明日夢を弟子にしないという選択の射程はこのようなドラマ作りの根本にまで及んでいたのだと思う。

これがいかにとんでもないことか、どうしてこんなことをしなければならなかったのか、当然湧き上がってくる次の問題で、まずなぜこのようなことに及んだのか述べてみる。実は端的にいうとわからない。そもそも響鬼でドラマのサブとメインが入れ替わるというのだって仮説なのだから、確かな根拠などあり得ないし、想像するくらいしかできないわけである。だからこれは想像なのだが、ヒーロー物で出来ることに限界を感じていたのかもしれないと思うのである。実際クウガでやりきって、やりたいことが残っていなかったのではという証言もある(片岡氏の本)。ここで強調したい限界というのは、たとえばミンキーモモ(第一作)の終盤で提起された「夢や希望は自分で持つものであり、人から貰うものでもあげるものでもない」といった架空のファンタジーを消費することそのものを否定しかねない限界で、リアリティを重視していき、日常のドラマを掘り下げていくほど、特撮ヒーローが作品に浸食する複雑な実社会と同質の問題を抱える視聴者を勇気づけることが可能なのか、またそれが適切なのかという疑問なのである。

おそらく響鬼はその疑問に対する答えへの試みで、ドラマのサブとメインの転換がそのアプローチ(あまり理解してもらえなかった)だったのだろうが、おそらくオーディションで役者を見た時にその方向性が定まりだしたのである。

明日夢君は弟子にならない、鬼を目指さないとはそういうことだったのだと思う。しかしこの試みはうまくいかなかったし、またこの試み自体内側からの困難を抱えていた。この課題への再挑戦が「大魔神カノン」なのだろう。あれが響鬼で構想されていたことの具体化であり、実現しなかった後半に盛り込まれるものの展開だったのだと思う。

 

 このあと響鬼の困難とカノンについて触れる予定です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

「仮面ライダー響鬼」路線変更問題への試論めいた雑感1

今回は仮面ライダー響鬼について書こうと思う。このネタは中々、物入りで書き始めかねてたのだが、書いてみようと思う。一度片付けておかないと、私にとって、これは次のことがなかなか捗らない案件なのである。

ふれてみようと思ったきっかけは先日カブトのあらすじをチェックするのにwikiにあたってみて、まだ不明な点があったのでニコニコ大百科でカブトの項目をみていて掲示版の議論をあたっていたら、響鬼に触れたレスがいくつかあって、私も未聞の内容だったので、大魔神カノンの放送の頃からチェックしていなかった、あれから幾分響鬼についての新しい証言が追加されたていたことを知り、その内容(webだからまた聞きではある)に目を通していると、その印象と放送終了の頃からモヤモヤしてた拘泥に形を与えたくなってきて何か、言いたくなってしまった。

 

あと但し書きですけど、言及する作品をすべて全編を通して観ているわけではありません、放送時の記憶、あといくらかネットの投稿でのつまみ観、また各エピソードではネットに転がっている各話感想の批評からの描写の確認から出来上がっているので、満を尽くしたものではありませんし、本編を視聴したあと考えが変わる可能性もあるのですが、そういう準備不足ながらも考えをまとめたものであることをお断りしておきます。

 

そういうわけで響鬼wikiを見てみたら、元東映の高寺Pも参加している『語ろう!555 剣 響鬼』 (カンゼン〈永遠の平成仮面ライダーシリーズ〉)みたいな本とか、既に既刊だが2010年ごろには気付かかなかった片岡力『「仮面ライダー響鬼」の事情 ドキュメント ヒーローはどう〈設定〉されたのか』 (五月書房)みたいな参考資料があって微妙に作品の評価の像が以前と変わっていた。企画の経緯についての証言、後半の構想への言及があったのは発見だった。

ところで響鬼で議論を呼ぶのはやはり中盤での路線変更で、なぜ降板が起こったのか、降板後の後半をどう評価するか、降板が起きなければどういう展開だったのかなど、議論の対象はそれぞれあると思う。ここでは後半をどう評価するかは置いておく。実はあまり興味ないし、後半のスタッフはよく頑張ったと思っている。ここで対象にしたいのは降板が起きるにせよ、そうでなかったにせよまず構想の問題、そして降板がなかったとしたら、後半の構想がどんなものだったのかという問題なのだが、wikiの修正は長年感じてきたこの疑問に些かの照明を与えてくれた気がするのである。

 

・構想の問題

 まず結論からいうと、留保やら条件をすっ飛ばしていうと響鬼という作品の主役は明日夢君である。実際これは明日夢のオーディションで役者を見たことの直感から、明日夢君が弟子にも鬼にならないという方向性を高寺Pが思いついたという逸話があって、それが物語の選択肢の一つになったとき生まれた可能性なのだろうが、29話まで観ると結局それが選ばれ現実になったんだと思っている。でも実際は明日夢いらない子かなと思う視聴者も少なくない存在感だった。

私自身はどうかというと前半の中学生日記みたいな雰囲気は面白かったと思っている。高校生の日常的な悩み、問題に明日夢君が当事していくドラマと鬼の魔化魍退治を平行して描く構成はどちらがで主従というわけでもなく、視聴している子供、思春期までの視聴者に生きていくことについてのあってほしい期待を期待である限りにおいての押し付けがましさのなさで描いていて、視聴者の子供へ番組を送り出す大人の責任への姿勢が窺えて好意的だった。もっともこの姿勢がおっさんを慰撫していると非難されるのだけれど、そんな期待が偽善だと言う側にしても責任とよばれるものを忌避して子供であることに居直っているに留まっていることがしばしばだし、子供である限りの真摯さと誠実さでそれをやっているならいいのだが、快楽と生活への権利を行使した大人の悪ふざけに往々にして堕してしまうことも同じくらい問題だろう。結局はどちらの悪趣味を選ぶかという趣味の問題に過ぎず、表現として成立していれば結果オーライなのだが、響鬼はなんとか成立していたと思うのだ、私は。

しかし、あのまま一年間完走できたかは微妙だし、明日夢いらない子と多くの視聴者も感じていて、二つのドラマを平行させて進行させる手法も視聴者に意味が伝わってなかったと思う。じゃあ、なんでこんなバクチをしたのか、オーディションで明日夢君役の栩原さんを見たとき、弟子ものとかバディものみたいな元の企画の主旨を放棄して、中学生日記をヒーローものと並行するような肌合いのドラマを選んだのか、ということを考えたいと思う。主人公を明日夢君だと考えてみたい理由もそこにあるのだ。

そしてその選択の避けようのなさを説明するためにはクウガがどんなドラマだったを振り返ってみる必要があると思うのである。

 

 

キリがいいのでここで区切ります。長々しい前置きは既に済ましたので次はコンパクトに収めたいです。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。