キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

ゼロ年代、アニメ、MBSについて、但し書き

随分、ゼロ年代毎日放送のアニメについて、局Pのことも含めて取り上げてきたが、これからも取り上げることになると思うし、その中でやはりユーモラスに扱おうとしたら、幾分嘲笑的な悪意を感じられる方もあるだろうから、これからも含めた一連の記事で題材にしたい意図について説明しておきたい。

一連のMBSのアニメ作品は、まあ今でもそうでが、少数民族やら戦争の問題を題材にし、政治的に捉えられやすい作品群として知られている。コードギアスが反米アニメとラベリングしてみれば何となく、位置づけてみたとすませられる風潮のことである。実際、そういう題材を扱っているのは確かなので、政治的にみられることが間違っているというわけではない。何度か、口に出したのだが、その扱い方の問題である。

結論からいえば、政治なり社会の問題を架空の作品に題材として取り入れるときに注意すべきことは何だろうか、とあれらの一連の作品によって考えさせられることがあったので、それを明確にしてみたいという執念が、MBSのアニメについて語りたくなる動機なのだが、たとえばそれはこれから生殖医療の問題も議論されようという時代に、生殖医療がじゅっぱひとからげに積極的優生かとくくりかねられないメッセージに受け止められてもおかしくない設定の話をつくるかふつう?、クルーゼの悪意の動機示された時は唖然としたよ、といったものなのだ。

じゃあ積極的優生ならどういうふうに題材にとりいれればいいのだろうといった疑問が生まれてくる。少なくとも病気やら障害に苦しまれる方に配慮する必要はある。ガイドラインが必要であるとしても、現実への配慮と表現したいメッセージがあるとき、何が原則なのかは明示する必要があるだろう、いやするべきと考える。

ちょっと安易な類推で例をあげてみるが、夫婦が遺伝で次世代に病気が発生しやい条件であるときに子供を作るかどうかは一つの選択である。そういう境遇はあるはずである。一方seedでは種としてはコーディネイターは子孫を得ることが容易ではないという設定があった。あまり適切な対比ともいえないが、遺伝と生殖なんて夕方で安易に取り上げる題材じゃない、いろいろと予防線ぐらい必要だろうくらいのことは言えると思う。

まだ観てないがMBSの新作のガンダムでは主人公の少年兵はバンバン人を殺しているらしい。局Pも世代交代して非戦が否定されたのかどうか判断するのはまだ早計である。また非戦目当ての戦争への戦争のフックのためにその対極の状況が挿入されているにすぎないのではないか、と一般論としては考えられることを否定できない。しかもそれは世界のありきたりの現実だし、MBSの社会派路線てのは健在のようである。しかしどうもBSでは放送されてないんじゃないか、少なくとも見つけにくい。その健在な社会派路線のせいなのだろうか。

ここまで書いてくると、なんとなくそれなりに頭の中にうえを含めた社会を取り込んだ観てみたい企画がわきあがってくのである。不妊気味の夫婦が妊活してようやっと子どもを授かるとか、不妊を克服するために夫婦で協力したんだとかとかのそんなドラマを提供してほしいと思ってしまった。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

「ご注文はうさぎですか??」第1話感想

アニメの感想を書くことにしたといってもろくにみていない。異世界チートものだとか、そうでなければ、よくわからない設定、世界観のSFメカアクションだとか、再参入への敷居がやたらと高くなっていたので、敷居の低そうな作品から始めることにした。いわゆる「ごちうさ」である。この前tumblrであざといとこをgifにしたものを見て、何この可愛い生き物?と唖然としてポルノだと呟いたあれである。

 

アニメーションディレクション

 

各キャラクターの芝居を明確に切り取った、画面内の芝居する要素が絞られたシンプルな構図が中心になるのだが、割と芝居、カットの節目に奥行きのある構図が多用されています。その対照が効果的で語りを活気、節目を付け、リズムを作っていて、そのコンティニュイティの構成はわりあいに心地よいのです。もっとキャラクターに作図の視点が寄ったフラットな構図ばかりを連続させるのかと思っていたのですが、奥行きのある構図と端正な背景が節々に挟まれていて、日常的とはいってもベタな笑いを引き寄せるための4コマ漫画的な小芝居の微笑ましい時間とそれをつなぐ静かな時間との対照が生み出す変化に各キャラクターの感情や関係性が語られていることが、単純な4コマの映像化に収まらず、日常の生活のドラマになり得ていることになんとか成功しています。

もっとも趣味からいえば、これだけ奥行きのある構図と端正な美術を使えるのなら、もう少しキャラの等身を高く、眼は小さくして、キャラに視点を寄せるときも気持ちキャラを奥に置いて視点との距離感を生み出して、深い浅いのリズムだけでなく、空間を際立たせたような、より日常的なものを見たくなるのですが、萌えアニメですからね、細かいことを言っては行けないでしょう。

 

声のお芝居

 

この前も書きましたが、声の芝居にブレスの許容度は寛容になってきてます。正直、おっさんからすればメインの5人みんなウィスパー系です。で基本小芝居を作為するのですから、発話は会話中心です。かなりの芝居を顔つきあわせてしゃべっている設定なわけです。でウィスパー声です。物語の中に深く入ることができれば、視聴者である放送の外の受け手としては自分の距離感を、作中の聞き手のそれと錯覚してしまうことがおこってもおかしくありません。そうすると耳元でささやかれているような親密さが妄想されてしまいかねません。ここからは特殊な例ですがその相手を受け手であるその聞き手は処女だと信じているわけです。たとえばでも彼女には男がいました。なれば「耳に精子がかかる」くらいの拒絶のタンカはありえます。

これを翻訳すると、「僕の耳に他の男のスペルマくさい息をかけないで」なんだろうけど、1話みてるとそんなことを考えて、まあ、仕方ないのかという気になってしまいました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。 

もし毎日放送でゼロ年代仮面ライダーを作っていたら 0

私事で一つ心配事にだいたいのカタがついた。やれやれ。

ところで、この前の記事でゼロ年代毎日放送のアニメについてあれこれ言ったさいに、MBSで竹田Pがプロデュースした仮面ライダーを見てみたいとifの話を妄想していたのが、わりとその案が私のツボに入っていて、seedシリーズやルルーシュみたいな企画を着ぐるみアクションに置き換えると、どういう世界観を設定するかなと、まだあれこれあげてみるよりかは、アンテナを張ったところという感じ。

 ただこの妄想の世界観がどんなもので、実際の平成仮面ライダーがそれとかけ離れたものか、どうかは別の話で、平成仮面ライダーの諸作は割合911以後ということもあって、時事を題材としていて、MBSのアニメと相似した作風と言えないこともない。「龍騎」がハードな世界観を設定して世評が高かったのは周知のとおりだが、そのころは全く観測してなかったので、たとえば「カブト」なんか、まるでMBSみたいな仮面ライダーと言えなくないだろうか。まあワームという敵役の設定が移民とか難民を暗喩しそうな類いだし(内なる侵略者ってまあたいがいそうだけど)、確か最後に種族浄化を実行したがる種族純血主義者が出てくるが、それを倒しジェノサイドの実行は阻止するみたいな展開なんてseedの要素もあるし、「Darker Than Black 黒の契約者」も結末に浄化主義者が出てきた。実際「黒の契約者」とか「タイバニ」なんか企画の実写置換率は高そう。

ここまで書いてきて一応「カブト」をwikiで見てきたのだが、エイリアンに二種いるのね。結末のジェノサイド未遂はエイリアンの内ゲバみたいで、人類を巻添えにする予定の計画でseedのレイシズムとは少し違う。このあたりの設定と話運びの混乱(主人公の動機付けも含めて無理があるとしか思えない)を起こさずに締められなかったものかしら。しかし、このエイリアンに二種族いるって政治的に深読みするとヤバそうだ。まあこれはもし竹田Pならみたいな比較で試してみる勘ぐりで普通のライダー読みではしちゃいけないと思うけど。

最初に隕石で渋谷が壊滅して立ち入り禁止区域がとかいうのは「Darker Than Black」みたいではあるが、よくある設定の流用という気がしないでもないし、前作の「響鬼」の路線変更のドタバタの後、時間がなく色々な既成の素材を持ち込まざるをえなかったのかもしれない気はするが、面白い類似だと思う。それ以前の平成仮面ライダーの諸作品も種の対立のような主題があってMBSも含めて時代の傾向なのだろう。

まあまだアンテナをひろげたばかりなので何を思いつくか見当がつかぬのだが、wikiの竹田Pの項目を見てみると、社会問題にも造詣が深そう(万景峰号に乗ったことある!)なので、そういうものを発見したいものである。

なおwikiによると実際に、脳死や医療のドキュメンタリーを制作していたのだという。私はアニメ発信中でもなぜこの題材(優生思想)をこんな風(コーディネーター等)に扱うかのアカウンタビリティとして見たかったと思ったので、この前のドキュメンタリー作れよ、って言ったこととは両立するとは思っているのだが、竹田氏の医療に関するドキュメンタリーは「人間ってタッカーみたく、やりたいと思ったら、娘だって犠牲にするぜ」と読みうるような問いかけが含まれているのか、興味深く思う。

椎名林檎の「愛国ポルノ」と文化批評

韓国方面が熱くなっていているのを観測しているのだが、あまり面白そうな文脈の混乱が起こりそうでもなく、整理できてないことを混乱しながら書き連ねる気にもなれないし、椎名林檎のLiveで旭日旗まがいがたいそうにはためいていたと騒がれていたときに抱いていた雑感を掘り出しながら書いてみることにする。

旭日旗振りかざしていればネトウヨかい、みたいにツッコミたくなるところがあって、そもそも販促ものの旭日旗はまがいの旭日旗だったし、椎名林檎そもそもがどこかベタよりもネタというかfakeを真剣にやるといういかがわしさがその表現に魅力があったんじゃないか。もちろん愛国はそのパロディをやってるから反日だなんて擁護したいわけではない。割と、この前のWC杯のときあたりのインタビューみると、オリンピックを控えてホストの国の日本がどれだけ人を驚嘆させうる表現を持ち得るかに関して責任を感じておられたので、まあ確かに国士様なのだが、それにしたって「ここでキスして」であっても現代のシド・ビシャスに自分たちをなぞらえる詩の痛々しさ、いかがわしさに対して、無自覚・天然であるわけでなく、演奏としてパフォームしきることにおいて痛々しいfakeを一瞬信じてみたいと思える瞬間があるから、当事の椎名が凄かったと今では思えるのだから、愛国的な熱狂というモチーフがあるにしても、それが響宴に供されるものならそれはうたかたなものではあっても、崇高なもの(美しい日本)ではあったりしないだろう、聴いてみたいくらいの擁護は思いつかないのだろうか。と旭日旗みたいなものを見ると、保守化ではと絶句するような紋切型を演じてしまう(新)知識人の振る舞いにいささか残念な気持ちになったのである。

ただこれは難しいところでと話題になったときに考えていて、いささか椎名自身が日本の音楽を代表してみたいかのような下心がないわけでもなさそうなのが気になるところであり、この先の表現の変化を注視したくはある。まあこの記事書こうと思ってYoutube少し見たけど、愛国ポルノを魅力のそのいかがわしさも含めて提供してる感があり面白いと思う。てかステージのデザインの仕様見てると、どっちかというとモダンで、大瀧栄一のアルバムのジャケットイラストを日本人、和素材にしましたみたいな感じで日本のロックの戦後感をよく体現しているような気がするのだがどうだろうか。

でふと思い出したのが、90年代冷戦の終わったヨーロッパはドイツのアートについてで浅田彰ナショナリズムの回帰にふれて「ジーバーベルグ(映画監督)がドイツへの回帰を担当することによって、ビナ・バウシュがモダンに思い切りやれる。」みたいなことを言っていて、イデオロギー対立終了後のナショナリズム回帰状況でのアートの役割分担のような芸術家の対照を語っていたのだが、まあいまは椎名林檎モダンだよなと思う、思い切りかはともかく。日本回帰してるの誰だよ。

現在の日本に参照して考えてみたいが、東アジアはイデオロギーの対立がナショナリズムのそれに横滑りしてるような状況だろう。アートとかどうなんだろう。ただ批評っていうのは文化左翼ならではの香具師くささがあってほしいものだが、私の観測視野がせまくなったのか、党派を度外視したようなものは見かけなくなってしまった。