キジ猫の雑記帳

行き場のない野良猫の生活と意見です

「ご注文はうさぎですか??」第1話感想

アニメの感想を書くことにしたといってもろくにみていない。異世界チートものだとか、そうでなければ、よくわからない設定、世界観のSFメカアクションだとか、再参入への敷居がやたらと高くなっていたので、敷居の低そうな作品から始めることにした。いわゆる「ごちうさ」である。この前tumblrであざといとこをgifにしたものを見て、何この可愛い生き物?と唖然としてポルノだと呟いたあれである。

 

アニメーションディレクション

 

各キャラクターの芝居を明確に切り取った、画面内の芝居する要素が絞られたシンプルな構図が中心になるのだが、割と芝居、カットの節目に奥行きのある構図が多用されています。その対照が効果的で語りを活気、節目を付け、リズムを作っていて、そのコンティニュイティの構成はわりあいに心地よいのです。もっとキャラクターに作図の視点が寄ったフラットな構図ばかりを連続させるのかと思っていたのですが、奥行きのある構図と端正な背景が節々に挟まれていて、日常的とはいってもベタな笑いを引き寄せるための4コマ漫画的な小芝居の微笑ましい時間とそれをつなぐ静かな時間との対照が生み出す変化に各キャラクターの感情や関係性が語られていることが、単純な4コマの映像化に収まらず、日常の生活のドラマになり得ていることになんとか成功しています。

もっとも趣味からいえば、これだけ奥行きのある構図と端正な美術を使えるのなら、もう少しキャラの等身を高く、眼は小さくして、キャラに視点を寄せるときも気持ちキャラを奥に置いて視点との距離感を生み出して、深い浅いのリズムだけでなく、空間を際立たせたような、より日常的なものを見たくなるのですが、萌えアニメですからね、細かいことを言っては行けないでしょう。

 

声のお芝居

 

この前も書きましたが、声の芝居にブレスの許容度は寛容になってきてます。正直、おっさんからすればメインの5人みんなウィスパー系です。で基本小芝居を作為するのですから、発話は会話中心です。かなりの芝居を顔つきあわせてしゃべっている設定なわけです。でウィスパー声です。物語の中に深く入ることができれば、視聴者である放送の外の受け手としては自分の距離感を、作中の聞き手のそれと錯覚してしまうことがおこってもおかしくありません。そうすると耳元でささやかれているような親密さが妄想されてしまいかねません。ここからは特殊な例ですがその相手を受け手であるその聞き手は処女だと信じているわけです。たとえばでも彼女には男がいました。なれば「耳に精子がかかる」くらいの拒絶のタンカはありえます。

これを翻訳すると、「僕の耳に他の男のスペルマくさい息をかけないで」なんだろうけど、1話みてるとそんなことを考えて、まあ、仕方ないのかという気になってしまいました。

最後まで読んでいただきありがとうございました。 

もし毎日放送でゼロ年代仮面ライダーを作っていたら 0

私事で一つ心配事にだいたいのカタがついた。やれやれ。

ところで、この前の記事でゼロ年代毎日放送のアニメについてあれこれ言ったさいに、MBSで竹田Pがプロデュースした仮面ライダーを見てみたいとifの話を妄想していたのが、わりとその案が私のツボに入っていて、seedシリーズやルルーシュみたいな企画を着ぐるみアクションに置き換えると、どういう世界観を設定するかなと、まだあれこれあげてみるよりかは、アンテナを張ったところという感じ。

 ただこの妄想の世界観がどんなもので、実際の平成仮面ライダーがそれとかけ離れたものか、どうかは別の話で、平成仮面ライダーの諸作は割合911以後ということもあって、時事を題材としていて、MBSのアニメと相似した作風と言えないこともない。「龍騎」がハードな世界観を設定して世評が高かったのは周知のとおりだが、そのころは全く観測してなかったので、たとえば「カブト」なんか、まるでMBSみたいな仮面ライダーと言えなくないだろうか。まあワームという敵役の設定が移民とか難民を暗喩しそうな類いだし(内なる侵略者ってまあたいがいそうだけど)、確か最後に種族浄化を実行したがる種族純血主義者が出てくるが、それを倒しジェノサイドの実行は阻止するみたいな展開なんてseedの要素もあるし、「Darker Than Black 黒の契約者」も結末に浄化主義者が出てきた。実際「黒の契約者」とか「タイバニ」なんか企画の実写置換率は高そう。

ここまで書いてきて一応「カブト」をwikiで見てきたのだが、エイリアンに二種いるのね。結末のジェノサイド未遂はエイリアンの内ゲバみたいで、人類を巻添えにする予定の計画でseedのレイシズムとは少し違う。このあたりの設定と話運びの混乱(主人公の動機付けも含めて無理があるとしか思えない)を起こさずに締められなかったものかしら。しかし、このエイリアンに二種族いるって政治的に深読みするとヤバそうだ。まあこれはもし竹田Pならみたいな比較で試してみる勘ぐりで普通のライダー読みではしちゃいけないと思うけど。

最初に隕石で渋谷が壊滅して立ち入り禁止区域がとかいうのは「Darker Than Black」みたいではあるが、よくある設定の流用という気がしないでもないし、前作の「響鬼」の路線変更のドタバタの後、時間がなく色々な既成の素材を持ち込まざるをえなかったのかもしれない気はするが、面白い類似だと思う。それ以前の平成仮面ライダーの諸作品も種の対立のような主題があってMBSも含めて時代の傾向なのだろう。

まあまだアンテナをひろげたばかりなので何を思いつくか見当がつかぬのだが、wikiの竹田Pの項目を見てみると、社会問題にも造詣が深そう(万景峰号に乗ったことある!)なので、そういうものを発見したいものである。

なおwikiによると実際に、脳死や医療のドキュメンタリーを制作していたのだという。私はアニメ発信中でもなぜこの題材(優生思想)をこんな風(コーディネーター等)に扱うかのアカウンタビリティとして見たかったと思ったので、この前のドキュメンタリー作れよ、って言ったこととは両立するとは思っているのだが、竹田氏の医療に関するドキュメンタリーは「人間ってタッカーみたく、やりたいと思ったら、娘だって犠牲にするぜ」と読みうるような問いかけが含まれているのか、興味深く思う。

椎名林檎の「愛国ポルノ」と文化批評

韓国方面が熱くなっていているのを観測しているのだが、あまり面白そうな文脈の混乱が起こりそうでもなく、整理できてないことを混乱しながら書き連ねる気にもなれないし、椎名林檎のLiveで旭日旗まがいがたいそうにはためいていたと騒がれていたときに抱いていた雑感を掘り出しながら書いてみることにする。

旭日旗振りかざしていればネトウヨかい、みたいにツッコミたくなるところがあって、そもそも販促ものの旭日旗はまがいの旭日旗だったし、椎名林檎そもそもがどこかベタよりもネタというかfakeを真剣にやるといういかがわしさがその表現に魅力があったんじゃないか。もちろん愛国はそのパロディをやってるから反日だなんて擁護したいわけではない。割と、この前のWC杯のときあたりのインタビューみると、オリンピックを控えてホストの国の日本がどれだけ人を驚嘆させうる表現を持ち得るかに関して責任を感じておられたので、まあ確かに国士様なのだが、それにしたって「ここでキスして」であっても現代のシド・ビシャスに自分たちをなぞらえる詩の痛々しさ、いかがわしさに対して、無自覚・天然であるわけでなく、演奏としてパフォームしきることにおいて痛々しいfakeを一瞬信じてみたいと思える瞬間があるから、当事の椎名が凄かったと今では思えるのだから、愛国的な熱狂というモチーフがあるにしても、それが響宴に供されるものならそれはうたかたなものではあっても、崇高なもの(美しい日本)ではあったりしないだろう、聴いてみたいくらいの擁護は思いつかないのだろうか。と旭日旗みたいなものを見ると、保守化ではと絶句するような紋切型を演じてしまう(新)知識人の振る舞いにいささか残念な気持ちになったのである。

ただこれは難しいところでと話題になったときに考えていて、いささか椎名自身が日本の音楽を代表してみたいかのような下心がないわけでもなさそうなのが気になるところであり、この先の表現の変化を注視したくはある。まあこの記事書こうと思ってYoutube少し見たけど、愛国ポルノを魅力のそのいかがわしさも含めて提供してる感があり面白いと思う。てかステージのデザインの仕様見てると、どっちかというとモダンで、大瀧栄一のアルバムのジャケットイラストを日本人、和素材にしましたみたいな感じで日本のロックの戦後感をよく体現しているような気がするのだがどうだろうか。

でふと思い出したのが、90年代冷戦の終わったヨーロッパはドイツのアートについてで浅田彰ナショナリズムの回帰にふれて「ジーバーベルグ(映画監督)がドイツへの回帰を担当することによって、ビナ・バウシュがモダンに思い切りやれる。」みたいなことを言っていて、イデオロギー対立終了後のナショナリズム回帰状況でのアートの役割分担のような芸術家の対照を語っていたのだが、まあいまは椎名林檎モダンだよなと思う、思い切りかはともかく。日本回帰してるの誰だよ。

現在の日本に参照して考えてみたいが、東アジアはイデオロギーの対立がナショナリズムのそれに横滑りしてるような状況だろう。アートとかどうなんだろう。ただ批評っていうのは文化左翼ならではの香具師くささがあってほしいものだが、私の観測視野がせまくなったのか、党派を度外視したようなものは見かけなくなってしまった。

繰り返すあの「のっち綺麗になった問題」について。この頻発はまるで恋だね、

実はライブを見にいったりするほどじゃなくて、気になるとYoutubeをチェックしたりするくらいなんですけど、Perfume好きなんですよ、ファンというより気になる人くらいの程度なんですけど、この前、NHKでMJのPerfumeメジャーデビュー十周年記念番組やってて観てたんです。のっちの前髪ありのショート時代(個人的にはあの頃好き)のライブが割とあって、自分の中で時間軸整理できてためになったんですが、見入ってたんですよ。なんで好きかって屁理屈こねればテクノポップをアイドルがやる同時代性とか拵えられるんですけど、単純にトーク見てるとステージで見得切るのじゃなく素に近いのっちかわいいや、とか思ってニヤニヤしてたんです。

である時期からPafume見ててYoutubeで広島時代の映像あさるとホント思うのが、のっちって年齢で顔の印象変わるなあということ、ずっと不思議に思っていたんです。あーちゃん、かしゆかってのはわかるんです。一番古いらしい広島時代の映像見ててもあーちゃんは目元はもちろん顔の要素が既にそろっているし、かしゆかはそのころから目元一貫した表情があります。のっちはよくわかんない。あんまり今の印象と共有する要素って少ないんですよ。この水木しげるのベトベトさんみたいに大きな口(番組でも言ってた)開けて笑う、まだ何考えているのかよくわからない目元した(おそらく自分の考えって自分のものだけではなく、周りにも預けているような、でも不安はない)、いい意味で子供らしい女の子が、奇麗になった、奇麗になったとスレ立てられている魅力的な女性になったって信じ難いものがあるんです。

まあおまえが信じなくったって、でもそうなったんだし目出たいことじゃねえか、と言われればそれまでなんですが、それで終わらせる前にもう少しつきあってください。

で広島時代の最古の映像見てるとのっちは他の二人に比べて顔の要素出そろっておらず、いわば挙動もあわせてまだ児童の延長って感じなんですが、東京に出てきてBEE-HIVEで合宿所の中継カメラの前でギャグしたり、メンバーでダベっている頃になると、もう中3で顔が出来上がってきてるんですけど、そのころの映像と現在前髪からレングスになっておでこ出してる時代と比べてみると、似て来てるけどまだ何か同じ人という感がしない。まだ何か目の表情が違う感じする。何でかなあとか思ってたんですけど、十周年ということもあって、2005年頃のスチールとかもネットに上がって来てるの見ててふと、何か既視感を感じて思いついたのが、あの目の表情は田舎の部活少女が身内で盛り上がっているノリなのではなかろうかと思い至ったんですよ。

なんというか、まず部活ならではの身内の親密圏、またまわりの社会の大人も流動性なんて少なくて、顔ぶれが把握できるような(だから田舎)親密圏があって、その中で信頼してる具体的な存在に向けているような目線な気がするわけです。その点あーちゃんとかしゆかはアイドルという目標か具体像がわりとあって、不特定多数、しかも共有する空間を越えて写真の向こうにむけてどう表情をとればいいのかわかっている気がするという。

その点からみると2005年以前だとのっちの動画やらスチル見ると、アイドルに求める複製メディアで不特定多数に笑みを差し向ける要請からすれば、全国はアウトみたいに言えそうなものがそれなりにあるんじゃないかという気もします。知らないところにつれてこられて、パブリックやソーシャルな場でどんな顔したらいいいかわからないけど、部活は楽しいよみたいなドキュメントのような。まあ自分が意図したものが届くだけが表現じゃないし、素材天然でかわいいじゃん、いいやんというのも正論なんですけど。

でエレクトロ・ワールドみたいな初期のころは地方の部活少女が慣れないメイク、衣装を上から付けられて、いわば他人の丈の大きい着物借りてムリヤリ歩かされているような感じすらするんですが、しばらくたつと衣装もメイクも自分のものになってきて、部活少女の名残まといながらも表情こなれて、何かいわばアスリートの片鱗見せながらキャリア重ねていくんですが、部活少女の舞い上がった感は何か若干残ってる。だいたいそういう残っていた子供らしさ感から卒業してしまう転機になるのがDream Fighterあたりなんじゃないかと思っているんです。動きの大きいダンスと楽曲のリアルなメッセージ性を表現して、身長が三人で最も高くなったガタイの見栄えのする大きさをどうパフォームに活かすかということに結果が出た、踏ん切りがついたような気がします。で、ここら辺で外でどんな顔をしたらいいのかはっきり定まった、気にならなくなったという感じがするわけです。Perfume史から見ると武道館以後あたりかもしれませんけど。この仮説思いついたときは、Youtubeでおでこに前髪のあるPVはDream Fighterで最古なのかと思っていたんですが、それ以後の曲も割とありますね。しばらくするとモデルっぽい大人の装い、雰囲気になって表情もそれらしいものになってきます。しばらくするとのっち美人になった、美人になったと騒がれることになる。

結論としては本人の変化によって、目は人を表すといっても、目元も変わってくるんじゃないか、ということなんですが、こういう稚気豊かなという表情から、その内面をセーブしたり抑えて示唆するようにできる大人の静けさを得る、割と質的な変化がある場合それを何と命名しようかと考えたんですが、「ゴルゴ化」するってどうでしょう。

まあ十周年記念のMJ見てると広島時代みたいに大きな口開けて笑ってるし、全て「・・・」で感情を言うみたいな極端な人はいませんけど。あれはフキダシという技法で成り立ってるウソですし。でものっちのスチールに「・・・」てフキダシ重ねたもの見たくなります。

この記事を書くのに色々と番組以外にもYouTubeとか観てたんです、で上の記事と矛盾するようですけど、ずっと広島時代とかその直後の時期観てると(彼氏を募集中あたり)何かいまと共通する表情みたいなのが、見えるぞ、見えたぞみたいな発見があって面白かったです。笑うと目が三日月みたいに細まったり、眉がハの字になったりとか。何か逆に現在のパーツの方がちっちゃい頃に似てる。これだけ観てるともう現在ののっちがどうとかじゃなくて、いや加えて、こんな娘がいたら幸せなんだろうなあ、と遠い目してるおっさんでした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。